縞馬は青い

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人と人は分かりあえるのか/吉田大八『羊の木』考察・感想

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桐島、部活やめるってよ』において吉田大八監督は、カメラを向け合うことによって通じ合う2つの心を描き出した。ラストの屋上のシーン、前田が将来を語り、宏樹が涙するあの場面である。決して交わることのなかったあの2人の邂逅。住む世界が違っても、考え方が違っても、しっかりと目を向ければ「人は分かりあえる」ということをあの8ミリカメラを使って演出していたように感じる。

* * *

本作、すごく難解でした。一日中考えても結局何を伝えようとしているのか分からない。例えるならば現代アートを見せられているような気分。(できればもう一度見て)もう少しだけ考える必要があるとは思うのだけど、この「分からない」という感情も恐らくこの映画のトーンに同調していると思うのでこの状態でとっ散らかった感想を書いてみたい。

 

本作がまず描いていたのは、「私たちは(元)殺人犯と共生できるのか」という問いである。映画『怒り』が描き出したあの「信じる/疑う」という感覚がここでも蘇ることになります。殺人犯に限らず、「人と人は分かりあえるのか」という問題は長い間映画という芸術が対峙してきた問いだと思うのですが、本作が描き出したそれは、難解ではあるけれど非常に見応えがありました。まとめきれないのでちょっとパートに分けます。


※以下、ネタバレを大いに含みます

 


【見る/見られる】

冒頭、月末(錦戸亮)が6人の殺人犯(この時点では知らないが)を駅や空港に迎えに行き、「人はいいし、魚は美味しい」と繰り返し語る場面がある。その場面において彼は、移住者の「食事」をただひたすらに見つめている。見るという行為によって、情報が無く得体の知れない人物たちのことを見定めているようだ。場面は変わって杉山(北村一輝)が登場する多くの場面で、彼は「カメラ」を持ち月末をはじめとして初めて出会う人々を注意深く見ている。月末が杉山のことを見ていると思ったら実は杉山が月末を見ていた、という反転が面白いのだけど、この見る/見られるという演出は他にも、バンド練習を窓から覗く宮藤(松田龍平)や大野(田中泯)の目の傷を見て怯える聴衆の目など(たぶん他にも)随所に表れている。「見る」という行為は、相手を"信じる"か"疑う"かを決定するために人々がとる行為であるだろう。私たちが殺人犯を見定めているのと同じくして、殺人犯である彼らも「この人は信じられるか」と目を凝らしている。何が言いたいかというと、殺人犯であれ何であれ、人間関係における立場は同等である、ということだ。みんな「この人は信じられるのか」ということを確かめるために怯えながら、期待しながら見つめている。

 

【「顔がきれる」という映像演出】

最初から最後までこの演出が多すぎて若干あざとかったんですけど、この演出をどう捉えるかによって受け取り方が変わってくると思う。頭(顔)が見えないことによって、その人物が何を考えているか分からないということを演出しているのだろうけど、登場人物同士が(相手が何を考えているのかを)分かっていないのか、はたまた画面の向こう側である私たちにだけ見えていない(考えていることが分からない)のか。どちらにしろ度重なるこの演出は私の不安感を煽っていきました。「分からない」というのはすごく怖くて不安なんです。*1

 

【共通項、肌、友達】

人は分かりあえるのかということを問うている本作ですが、「分かりあえている」状態って具体的にはどんなだろうか。本作で掲示されるものとして一つ目は「共通項」を持っているということだ。理髪店でのシーンが最も印象的かな。福元(水澤紳吾)は店主にムショ帰りであることがバレたと勘づき、激しく動揺する。「ヒゲを剃る」という行為が「人を殺す」という行為に変わってしまいそうになる中、店主自身もムショ帰りであったことが伝えられることによって福元は緊張から解き放たれ自体は好転した。共通する過去を持っているということ、あるいは趣味や好きなことが一緒であること。それは信頼へと繋がる。度々挿入されるバンド演奏もこれと同じような意味を持っているだろう。ともに演奏をするという行為でもって、長年会っていなかった彼らも心を通わせ合う。

次に、「肌で感じたあの感情はなんだったの?」と大野に訴えかけるクリーニング店の店主(安藤玉恵)の姿も印象的であった。現実に肌で感じたある種の「信頼感」が、過去に犯した殺人という罪によって「疑念」へと変わるのか。文(木村文乃)は宮越の過去を知って動揺し、クリーニング店の女性・内藤は尚も信じようと試みる。どこに違いがあり、行動と意識の差異が生まれるのか。一つ上げられるのは、大野が自らの言葉で相手に真実を伝えたのに対し、文は違う人から真実を告げられた、という違いであろう。大野は内藤を「信じて」真実を語った、一方宮越は、まだ文のことを信じきれていなかった、これこそが重要なポイントであると感じます。お互いを信頼しあうことによって大野と内藤は良い関係を築き上げたのだと思う。

また、宮越は幾度となく「それって友達として聞いてる?それとも市役所として?」と月末に尋ねる。友達は信頼できるけど市役所は信頼できないという宮越の思いは確かに共感できるものである。ただ、この質問をわざわざ「何度も(2回かな?)」するということは、まだ宮越は月末のことを信じきれていないということの現れでもある。友達であってほしいと望みながらも、宮越自身がそもそも友達であると信じきれていないところに問題点を感じました。つまり、私たちが彼らを信じたところで、彼らが私たちを信じないことには何も始まらないということです。

 

【繰り返す】

月末と宮越の関係は、宮越による殺人が繰り返されなければ上手くいっていたのではないか。宮越は殺人という行為をなぜか繰り返してしまうけれど、繰り返しているのは彼だけではない。本作で描かれるそれは例えば、福元の酒乱や太田(優香)による「故意ではない殺人(未遂)」、悪いことを企む杉山など。「人は良いし、魚は美味しいし」と語る月末もそうかもしれない。人は何か「良くないこと」を意識的にも無意識的にも「繰り返して」しまう。そしてそのことによって、心は離れていく。

 

【Death is not the end、死は終わりではなく】

本作の主題歌である「Death is not the end」。
『告白すると、この歌が「希望」と「絶望」のどちらを歌っているのか、何度聞いてもわからないのです。その両方かもしれないし、全然違うのかもしれない。そしてそれは、この映画の締めくくりにとてもふさわしいと思えました』*2
吉田監督はインタビューでこのように語っている。この映画のラストは希望なのか絶望なのか、それは監督にさえ、"分からない"。月末と宮越のどちらもが生きれる世界ではないということは、まぁ確かなんでしょうね。それが良いことなのか悪いことなのか。分からないけれど、考え続けたい問いとなりました。

 

【分からない】

この映画、とことん分からないんですよ。同じ町に6人もいればそりゃ何かが起こってもおかしくないだろうに元殺人犯を住まわせる市長の気持ちがまず分からないし、同じことを繰り返してしまう彼らの心情も分からない。そしてラストシーン。文の言葉を月末は「ラーメン」だと解釈するわけだけど、本当にラーメンと言っているかどうかは、文にしか分からない。そもそも月末という人物の内面は「文のことを一途に思っている」ということくらいしか観客には知らされません。成長も転落もせず、映画の始まりと終わりで何も変わっていないように見える彼の姿は、他の吉田監督作品と比べても主人公らしくありませんでした。終始『分かったフリ』をしているような人物にも見えたのだけど、うーん。もしかしたら数ある登場人物の中で一番内面の分かりづらい人物だったかもしれない。

人と人は分かりあえるのか。分かりあえることもあるだろうし、分かりあえないこともあるかもしれない。他人なんて分からないことだらけだけど、一人では決して生きていけないから私たちは人と「出会う」。その時に、この月末のように「分からない」ことを「ラーメン」と勝手に解釈して生き続けるか、それでも分かろうと努力し続けるか。反対方向に進んでいくバイクを見守る月末の姿に、「それじゃダメだ」と直感的に感じたのです。f:id:bsk00kw20-kohei:20180205022839j:image

【反駁】いや、「何となく」で通じ合う関係も悪くはないかもしれない。文が実際に「ラーメン」と言葉を発していたとしたら、フィーリングで通じ合えているのは素敵なことだ。ただ、文と月末の心が通じ合っているかと問われれば、微妙なところだろう。

*1:魚の頭を切る、のろろ様の頭が落ちる、など「死」と結びついているようにも感じるこの「顔がきれる」という演出。魚の死骸を植えた土から芽が出、のろろ様が海から引き揚げられたように、「死」による「救済」を表しているようにも思えます。

*2:リアルサウンド映画部」より引用https://search.yahoo.co.jp/amp/realsound.jp/movie/2017/12/post-136945.html/amp?usqp=mq331AQECAEYAQ==