縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

そうして暑い夏が始まって/枝優花『少女邂逅』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180701183506j:imageときどきある。席を立って映画館から出ても、心だけをその場所に置いてけぼりにしてきてしまうことが。外のむわっとしたぬる~い風だけを肌に感じながら、遠い世界から吹いてくる息吹に持ち上げられ、ふわふわっと宙に浮いてしまうような。映画の息吹を感じる瞬間。久しくその不思議な感覚を得られる作品に出合ってなかったのかもしれない。こうやって息をして「生きている」作品に出合うことが、ときどきある。

監督のもつ実体験を、岩井俊二成分を多分に含ませながら映写し、しかし全く新しいオリジナル作品へと昇華していく。モトーラ世理奈という神秘的な天使をヒロインに登用できたことからなにからなにまで、その類まれなる才能に素直に驚く。枝優花という同世代の新鋭監督のことをぼくはまだ「天才」という2文字でしか語れないのだろうけど、これはすんごく嬉しいことなのだ。これから普通に生きていれば、その監督の紡ぐ物語にときどき接することができるのだろうから。そうしてときどき、ふわふわっと宙に浮けるのだろうから。

 

一人ひとりの世界には越えようもない隔たりがある。となりの席に座っている彼女が何を考えているのか、そんなことは到底わからないし、わからないからわざわざ「自分とは違うもの」に仕立て上げて拒絶しようとする。あるいは「彼女に近づきたい」と強く願っても、近づく理由、共通項が見つからないことによって、彼女とわたしの間には隔たりがあるのだと信じ込み、近づくことを諦めてしまう。

人間と人間が糸を紡ぐことの難しさ。その人間関係の中でも特に、ひとつのハコ(=教室)に入れられて同じ方向を向きながらもなぜか理解し合えない、あの学生生活における折り合いの難しさをこの映画は描いているのではないだろうか。

この映画を観ている多くの人はミユリに自分自身を投影するだろう。そうしていとも簡単に解離された世界を飛び越えてやってくる紬という存在に驚き、また恋をし、生きる価値を与えられるのだろう。スカートに顔を覆われた状態でのファーストコンタクトから始まり、ミユリの後ろから突如画面に映り込んでくるちょっぴりホラー的な登場まで「いきなり彼女がやってくる」という演出はかなり示唆的だ。

自転車に二人乗りし、電話ボックスで雨宿りをして。そういう超越的な彼女と一緒にいるうちに、わたしと彼女の間には隔たりなんかないのではないかと信じることができるようになる。できるようになるのだけれど、それも長くは続かない。ふとした瞬間に、自分が分断された世界に生きていたことを思い出してしまうからだ。いつも一緒に登下校をして、仲良く遊んでいたあの子に突然いじめられる。そうゆう瞬間を経験してしまっているから。

蚕は互いが近づきすぎると糸が絡まってしまうから、ああやって部屋を分けて育てる必要がある。でも人間にその必要はあるだろうか。絡まってしまうからって糸を自ら切ってしまう必要なんてどこにもないのに、なぜだかそうしてしまう。あのころの私たちはみんなそうだった。みんな「同じ」であるはずなのに、みんな「違う」ことにしてしまっていた。そんなの矛盾の塊じゃないかって、あのときは気づいていたのかもしれないけどどうすることもできないのが、あの狭い空間だった。

この咀嚼しきれない人生のもどかしさと平凡な日常の尊さを、枝監督は優しく描き出そうとしている。アナザーストーリーとしてYouTubeで公開された『放課後ソーダ日和』の3人の「出会い」のシーンなんか、希望に満ち溢れていて最高なのだ。枝さんは信じているんだろうな。ほんとはみんな同じで、繋がれるってこと。

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余談*1

*1:「君」と呼ぶモトーラさん。完全に『花とアリス』なんだけど蒼井優に負けず劣らず最高だった。余談of余談ですが、初日舞台挨拶で登壇したモトーラ世理奈さんと何度も目があったので(たぶん気のせい)、暑い夏を乗りきれる気がします。

飛べないから飛ぶんだ/鄭義信『焼肉ドラゴン』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180624123330j:image全面的に指示できる映画ではない。むしろあまり好きではないタイプの映画だったのかもしれない。それでもなにかグサリと刺さる、心がじんじんと火照ってしまう「熱」をつねに感じさせる作品であった。

ときは1969年、高度経済成長期の真っ只中。場所は関西のとあるまち、伊丹空港の近くだろうか。そこに暮らす6人の在日コリアン家族とそのまわりの人々の苦悩や笑いといった日常を描いた映画だ。

 

 たとえ昨日がどんなでも

明日はきっとえぇ日になる

かつて大空を飛びまわっていたドラゴンが、国家に利用され翼を折られ、それでも頑張ってがんばって、働いて働いて、再び翼を取り戻して、大地を蹴り出す。この映画はそういった壮大なプロセスを描いている。役者の演技やこの物語が少々くどい、いや、一つひとつのセリフや笑いから涙までめちゃくちゃに“くどい”と自分は感じたけれど、戯曲が原作であるとかそれ以上にこの壮大な復活譚にはこのくどさが必要だったんだろう。観客もみんなちゃんと泣かされてたし笑ってたし。自分はイマイチ感情を入れ込めなかったけど、ひたすらにカッケェ!って感じていた。

冒頭の数分でこの物語の意図するところはなんとなく理解できる。そうゆう演出がなされているからだ。それはオモニがアボジの「腕のない袖を掴む」という場面。「失くしたもの」を「掴みとろうとする」。これだけでこの映画を語るには十分。本作ではいろんなものを失ったお父さんに限らず、届かない恋情や繋がらない血、通じない言葉や発されない声(…etc)に至るまで、その「ないもの」を諦めずにどうにかして掴みとろうとする、翼の折れたドラゴンたちの一歩一歩が丁寧に描かれていた。何度も何度も傷つき、そのたびに立ち上がり、最後には大空へと飛び立つ。その情熱の美しさよ…。

「その一方で」。中盤の彼の“飛び立ち”はあまりにも唐突で悲しい。その先にしか大いなる世界はなかったのだという事実に、ズシンと心が重くなる。

飛べないから、飛ぼうとする。その彼らの熱気。じゅわじゅわっと音を立て焼肉から立ちのぼったその煙が、僕の乾いた目にしみた。

毒キノコはなぜ、かくも美しいのか/ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』

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彼に恋する事で人生は謎ではなくなるのよ

 

終盤でアルマが語る言葉。人生は謎ではなくなる。そう、この映画では恋愛や結婚といった人間関係の「からくり」が提示される。その内実は実に高貴で美しく、また滑稽で可笑しく、震えるほどに怖い。ただ、鑑賞中(特に後半)ニヤニヤが止まらなかったのは、彼女と同じように人生の謎から少し解放されたからであり、その「からくり」に今まで経験したことがない感情を投影させられたからである。先日『ヤンヤン 夏の思い出』という映画を観て書いたレビューに「人は多くの役柄を演じている方が(多くの人と密に接している人の方が)、多面的に人生が展開していき、そのことは不幸も内包した人生の“豊かさ”に繋がるのではないか」というような言葉を連ねた。しかしこの映画はその考えを見事に覆す。思考回路が更新される。それが気持ちよくて仕方がなかった。『ヤンヤン』で感じたものも間違いではなかったと思う。多面的な人生にはおそらく豊かさがある。しかしその“豊かさ”ともまた違った人生の美しさがここには存在していた。もしかしたらわたしたちは、ある“たったひとつ”の役柄を演じるために生きているのではないか、とそう思わされてしまう映画だった。

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レイノルズは支配されることを恐れていた。自分を支配するのは、母親と姉だけでいいとずっと思っていたから、異物が混入することに細心の注意を払っていた。だから彼は人を家の中にあえて「招き入れ」、「服をつくり、着せてあげる」という手段でもって他人より優位に立ち、そのことによって聖域を固く守ってきた。そしてそれは、母親の“影”を感じるアルマに対しても何ら変わらぬことであり、決して二人きりになる時間を設けようとはしない。
そんなレイノルズでもある一瞬だけは子供のようにアルマに身を寄せる。ときにスランプに陥り静かに寝込む彼の姿に僕は、体を壊し母親に看病される幼少期のレイノルズを垣間見た。おそらく長い間(母親が死んでから)ひとりで強く生きてきたのだろう。アルマとの喧嘩のシーンでは「四方八方敵だらけだ」と彼は嘆く。愛しているはずのアルマを、最愛の人にしてしまうことに得も言われぬ恐怖があったのだろう。それは、いつか失ってしまうかもしれないことへの恐れなのか、待ちつづけることの寂しさなのか。それでも彼は最後、毒キノコを与え続けられることを受け入れるわけだ。そこに幸せがあることを彼はたぶん知っていたから。母親との関係が、彼をその結末に向かわせたのだろう。

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こんな感じで人生論について深く考えさせられる映画であったのだけれど、それとはまた別のベクトル、「エンターテイメント」という基準ですごく心に刺さってしまう作品だった。あげるとキリがないので割愛するけど、何もかもが「完璧」だった。これは今後映画を観ていく上での「原体験」になり得るような映画だ。小学生の頃に観た『ハリー・ポッター』みたいに。新宿武蔵野館というハコが素晴らしかったのかもしれないけれど、あの最前列で垣間見た人生の美しさと音楽の高貴さ、映像の妖しさは、今後映画館に行く上で1度だって忘れることはないと思う。こんな作品に出合うために、僕は映画を観てきた。そして「出合った」。

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ビー玉に宇宙を透かしていた/是枝裕和『万引き家族』

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なんとも釈然としない映画だ。いや、そんなことは観る前からわかってたことだけど、なんというか、打ちのめされた!って感じ。泣いていいのか怒っていいのか、はたまた笑っていいのかわからないこの感じ。どれもが正しい感情なんだろうけど。うん。カンヌをとったから、といってこの映画の評価を押し上げようとはしたくないけど、やっぱりカンヌを取るにはとるだけの理由があるのだ。是枝裕和は一歩、あゆみを進めたんだ。そして私たちもまた、その世界を知り、歩きだすことができる。是枝監督に連れられて。

何から語ればいいだろう。いきなり本題に入るようだけど、なぜ彼らは家族になれたのか、あるいはなれなかったのかということについてはしっかり考えなくてはいけない。鑑賞中、「あれ?結局この人とこの人はどうゆう関係なんだっけ?」とか無意味に考えて、結局「まぁそんなことどうでもいっか」と諦めてしまったのは僕だけじゃないはず。『そして父になる』が、血縁あるなしに関わらずどれだけ親が子に愛情を注げるか(その“努力”を惜しまないか)を問うた作品であったからこそ、本作においても、まぁ家族としてやってるっぽいし静かに見守ろう、という気にさせてくれるのだ。是枝監督による「家族とは何か」教育のたまものなわけです。

この映画を観る人は僕と同じように是枝監督による「家族とは何か」教育を受けてきた人が大半であることは予想できるけど、聴衆の中には、家族とは血縁だ、と信じる人もまだいらっしゃるでしょう。それは明治時代からこの国が「血縁主義」を貫徹してきたからであって、そうゆう人がいるのも当然のこと。でも、家族というある種概念化された言葉を使わずとも、彼らが、「似た者同士の集まった生活共同体」であるということはみんながすぐに感じることだと思います。

特に、治(リリー)と信代(安藤サクラ)が、ゆり(=りん)を家に返しに行った際のシークエンスなんかはすごく印象的。信代は返す気満々で家に向かったものの、ゆりの母親による「産みたくて産んだわけじゃない」という言葉が響きわたる。そのことによって信代は、ゆりを強く抱きしめながら愕然としゃがみこんでしまうのだ。この映画の書き下ろし小説を読むと、このときの彼女の感情はゆりへの愛おしさなんかではなく、幼い頃母に同じことを言われたことに対する憎しみだということが分かるけど、この瞬間、信代とゆりは(望むか望まざるかは別として)似た者同士として繋がることになる。

彼女らのヤケドの傷や、亜紀(松岡茉優)と4番さん(池松壮亮)の指の痛みなんかもこれに追随するものだが、演出としてもっとも示唆的なのは、柴田家が、亜紀以外みんな「おでこ」を出している点にある*1。この身体の照応。彼らは似た者同士であるから、過去の自分を放っておくことはできないし、家族になれるなれない以前に一緒にいるしかなかったのだ。

しかし、まともな愛情を受けて育ってこなかったのであろう治と信代は、親のなり方を知らず、「万引き」を教えるくらいしか、彼らのヒーローになる手段はなかった。冒頭の万引きシーン。そこには、共同作業での爽快感を感じるけれど、父親との思い出が万引きしかないなんて、やっぱりそれは悲しすぎるのだ。出来損ないの父親。是枝映画には父親になりきれない男がよく登場するが、『海よりもまだ深く』の良多(阿部寛)なんかもそのひとり。彼もゆすりのようなことをして飯を食っているダメな父親だったけど、治と異なるのは、息子に「宝くじ」という夢を教えてあげることができていたことだ。「叶わぬ夢」を追い続けることによる人生の豊かさをなんとか伝えようとしていた彼の姿は、出来損ないでありながらも愛おしかった。しかし治は、出来損ないの父親にすらなれない*2f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182356j:image

過去の是枝作品と毛色が違うなと感じた人は多いと思うけど、その一番の理由は「ウェットさ」にあると僕は思う。どことなく濡れてて湿ってる感じ。コロッケをうどんやラーメンに浸したり、お麩とかおしることかみかんとか素麺とか、出てくる食事がことごとく汁物で、それ以外にも鈴のおねしょやお風呂での戯れ、海、雪だるまなど、どこか画面全体に湿っ気が漂いつづける。これはこの家族が「ドライではない」ということを表す一番の表象なんだと感じとりましたが、一番驚いたのは今までになく「性」を押し出してきたこと。これまでの作品で大々的に濡れ場というものを映してこなかった是枝監督が、ここに差し込んできたことには大きな意味があるでしょう。この映画のウェットなトーンはすべてここに繋がるんだな、と。この家族は放任という言葉を知らない。ドライではなくウェットだから。ただ、子育ての仕方を誰も教えてくれなかっただけで。

でも、それが何よりも重要なものだったからこそ、祥太の心はかき乱されていく。ときに、駄菓子屋店主の優しさや父親の弱さ、家族のかけがえのなさを知った祥太は、心がぐらつく夜に、ラムネの中で音を立てたビー玉に宇宙を見る。ラムネに閉じ込められたビー玉、そしてビー玉に眠る宇宙。これは、押入れの中で眠る、若くて無限の未来がある少年・祥太そのものだった。f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182423j:image

近年の是枝作品と坂元裕二作品はテーマからキャスティングまで共鳴度が高すぎる。この冬放送された「anone」と本作を照らし合わせて直ぐにでも対談していただきたいものですが、その「anone」における最終話。中瀬古瑛太)がハリカ(広瀬すず)に対して「悲しいことを経験してきた人間は、この世界を恨む権利があるんだよ」と言った後のハリカのセリフが印象的だ。

誰も誰かを恨んだりなんかしてない。つらいからってつらい人がつらい人を傷つけるの、そんなの一番くだらない。バカみたい

と健やかに言いのけた。そのとおり。悲しくて辛いのはみんな同じだから、奪うことに意味なんてない。そう、意味なんてないことなんか治も分かってるはずなのに狂ってしまった歯車は回り続けていたのだ。そうして祥太は疑念を抱く、ぼくらは犯罪でしか繋がっていなかったのではないかと。f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182702j:image

ラストシーン、バス。祥太が帽子をとり、うしろを振り返る。まだ追いかけてきているのか確かめる。本当に繋がっていたのかどうか、もう一度確認する。鈴ではなくじゅりに戻った彼女は、再び小さな世界に閉じ込められる。ビー玉を並べ「誰か」の存在を待つ。亜紀はホームに戻る。そこにたしかに存在していたはずの「愛」を探しに。

同じ夢を見る。そこにはたしかに「家族」が存在し、同じ息を吸い、同じ麺を食べ、同じお湯に浸かっていた。万引きだけじゃなくいっぱいの思い出がそこにはあって、そんな思い出はこれからも彼らの世界を照らし続ける。

そんな彼らは次の年の夏もまた、同じ空を見上げることだろう。あのときの空の輝きが、今も心を照らしているか、確かめるために。

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*1:亜紀に関しては出自の差ということにしときます。

*2:なれなくてもいい、と開き直ったほうがまだ幸福なのかもしれない。“おじさん”でも十分繋がれるから。

ストロベリーミルクシェイクを飲み干して/リン・ラムジー『ビューティフル・デイ』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180602112817j:image映像と音楽が響きまくる特異な映画。リン・ラムジーの演出はあれこれと想像したくなる余白に満ち、ジョニー・グリーンウッドの劇伴はセリフよりも雄弁に状況を物語る。この狂気と愛が混じりあった映画、それが『ビューティフル・デイ』。

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ジョーホアキン・フェニックス)とはどういう男だったのか?これは映画を観るだけでは断片的なことしか分からない。子どもの頃に父親からの虐待を受けていて、なにやら軍隊(FBI?)の活動に参画して子どもを助ける活動をし、現在は失踪した少女たちの救出を業務としていること。

Wikipediaのあらすじを見てみるとこれに関してはすごく詳しく書かれているけど、映画が語る情報だけで十分な気もします。要するにジョーは孤独で、いつ自死してもおかしくないくらいに不安定で、そして過去のトラウマから逃れられていないということ。

これは、リン・ラムジー監督の前作『少年は残酷な弓を射る』の主人公エヴァティルダ・スウィントン)とも似ているキャラクター造形だけど、一番の共通点は「過去のある出来事に縛りつけられ、克服できない」ところにある。最後には克服しようと試みるところまで。

車や電車が画面をバンバンと横切りながらも、画面の奥から手前へ(もしくは手前から奥へ)縦向きに移動することが多いジョー。あるいは上にいくエレベーターを無視して階段をのぼる彼のすがた。この「流れに乗れない」男は、幾度となく自殺を試み、人生を諦めようとする。

しかし、死ぬことさえも簡単ではなかった。そんなジョーの仕事は失踪した女児を救出すること。これには、父親からのDVを受けていた自分に似た「社会から阻害された子ども」という存在を救出してあげたい(=そのことによって過去のトラウマから解放されたい)という思いが垣間見える。しかしいくら救出を実行しても、まったく彼の心は救われなかった。そればかりか、軍人時代(WikiにはFBIとある)に経験した、救えなかった多くの人の姿すらも何度もフラッシュバックしてくる。このことによって、肉体は男らしくも本質的には誰も救えない存在であることが強調される。そんな折に現れたのが、ジョーの子ども時代によく似た、いわば“相似形の天使”ニーナだった。

似ている部分といえばその真っ白な肌が大人によって傷つけられていること、また、「カウントダウン」をして何かを待っていることだ。そのジョーとニーナは、すぐに心を通わせていく。f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113433j:image

ニーナがホテルで連れ去られる刹那に「ジョー!」と叫んだシーンも印象的であったが、取り上げたいのは、ニーナがおしっこをしているところを車の中ではなく、ちょっと離れたところでジョーが見守っていたシーン。このシーンを僕は、処女喪失=血のイメージと対比させているのではないかと思ったのです。血ではなく(少し濁った)水で繋がるふたり。これはコトが終わるのをジョーが車の中で待っていたなら、空間が分断されて成立していなかったこと。

そしてこの場面を契機にすると、この映画が「血」と「濁った水」というコントラストを要所で使っていることに気づきはじめる。それは例えば、ジョーがナイフを口の中に入れようとした場面。その場面において母親から名前を呼ばれた彼は、やろうとしていたことを中断され洗面所に向かうことになります。そこで彼がしたのは、水浸しになった床をバスタオルで拭くという行為でした。この、「自殺」と「掃除」という相反する行動。母親とジョーもまた、血ではなく濁った水で繋がった関係。

もう一場面。それは母親が殺されているのを確認し、階下にいた男たちを銃で武装したジョーが襲うシークエンス。そこでジョーは母親を殺されたことによって怒りを爆発させるも、撃たれて苦しむ男、しかも家庭の存在やなにか背景を感じさせるその男に鎮痛剤のようなものを「ウイスキーの水割り」で飲ませました。その後一緒に歌を歌い、手を握って息絶えるまでの一連の流れ。ここに僕は得も言われぬ感情を抱いたわけですが、このふたりもまた、血ではなく濁った水で繋がることになった相似形の存在でした。

すべてを失ったジョーは母親を弔うために湖に向かうわけだけど、この場面でも「血」と「濁った水」の対比を感じることができる。ジョーは母親とともに水の中へ、まぁ一緒に死のうと試みるわけですがその瞬間、「カウントダウン」の声が“ふたつ”重なった。ジョーのカウントダウンは、それが終わることによる生からの解放を目指すもの、しかし彼は、もうひとりこの世界に自分と同じ存在がいて、その子はカウントダウンが終わった後に誰かが自分を助けてくれると信じて待っているということを再び思い出すことになる。それはもちろんニーナであり、過去のジョーでもあったのだ。そうして、湖の奥深くに沈んでいくニーナの幻想を見たジョーは、彼女を救うことができるのは自分しかいないと信じ、必死に泳いだ。「死体=血」を置いて。f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113657j:image

結果的に、カウントダウンをしても誰もやってきてくれないことを悟ったニーナは、自分で状況を変えてしまうわけだ。そしてもしかしたらジョーもそんな風にして父親を殺していたのかもしれない。どちらにしろ、ジョーはニーナを救うことができなかった。やっぱり自分には(ニーナも過去の自分も)救うことができないと悲観した弱い男は、ここでもまた自死を試みるわけだけど、そんなことは許されることではなかった。ジョーとニーナは計らずも「繋がってしまった」ふたりであるから、この濁った世界を一緒に生きていくしかないわけで。

Let’s go. It’s a beautiful day. 

そう言った彼女は、さわやかな笑みを浮かべる。どうやらニーナにはジョーが必要なようだ。そうして処女喪失(=血と精子の混ざり合い)を象徴するかのような「ストロベリーミルクシェイク」を飲み干した彼らは、どこへともなく姿を消した。

その先に笑いと涙があることを信じて。

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あとがき*1

*1:原題の「あなたはここにいなかった」の意味。ジョーには彼を救ってくれる人がその時にはいなかったということでしょうか。しかし注目したいのは「were」という単語。今はどうなのかと考えるとやはりハッピーエンドと捉えていいのかな。緑のグミが好きというのは、緑が赤の補色であるから血は好まないということの表れか。また、電話が繋がらないことによって「繋がり」が失われていく描写など、この映画は観れば観るほどいろいろなことに気づけそう。後半に連発するキューブリック的なシンメトリーの構図も鳥肌もんでした。最高っす。

それは幻想か、あるいは忘れてしまった現実か/ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180521215201j:imageなんて美しい世界なんだ。「“夢の国”のすぐ隣には辛く苦しい現実があった」というドロドロに腐りきったこの世界を映しておきながら、どうしてこんなにも彩り豊かで鮮やかになるのだろう。どうしてこの世界はこんなにも美しく、またそれを覆ってしまうほどに汚れているのだろうか。


僕はこの映画を観て自分にもたしかに存在していた「クソガキ時代」を夢想する。暇があれば川や公園に行き、ぐちょぐちょになって家に帰っていたあのときのこと。何の用もないのに駄菓子屋やスーパーを駆け回り、自販機のまわりにお金が落ちてないか漁ったり、道の向こう側に石を投げようとしたら車に当たってしまいバチバチに怒られたりしたこと。幼なじみとともに経験したその“冒険”には確かに幸せがあって、何もない田舎の風景も鮮やかな世界へと様変わりしていた。 f:id:bsk00kw20-kohei:20180521215224p:imageこの映画の描く世界を、モーテルの「部屋の中」と「部屋の外」に分けた場合、それはすなわち「圧迫された世界」と「自由な世界」ということになるだろう。そしてヘイリーを含めた大人たちは部屋の中にいて、ムーニーたちは外にいる。そう考えると、モーテルの停電や廃屋の火事などによって大人たちが部屋から飛び出すという画の動きは、ヘイリーが大人たちを自由の世界へ連れ出そうとしているようにも感じられる。たとえムーニーにそういった意図がなくても、大人たちはそれによって救われている。そしてジャンシーも、ムーニーによって外へ連れ出されたうちのひとりだった。だからこそ、ムーニーが圧迫された現実に引き込まれそうになる瞬間で、彼女はムーニーの救出に試みたのだろう。


その先が本当に自由なのか、なんてそんなのはどうでもよくて。だってこの経験がなければ、彼女たちはあのモーテルとこの社会に殺されていただろうから。

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「芸術のゴールデンウィーク!」と題してポップカルチャーを貪り喰らった一週間のこと

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社会人になってはじめてのゴールデンウィークだ。この頃、どうやら自分は孤独が好きではないらしい、と気づきはじめたのだけれど、そうは言っても友だちがあまりいる方ではないし、実家に帰るのもお金がかかるのでこのゴールデンウィークは孤独に、なんの予定もなく東京にいることになってしまった。ただ、家にずっといるというのも気が滅入るだろうと考え、この一週間、あらゆるポップカルチャーを貪ってやった。勢いでなんとなく予算は一万円に設定し(実家に帰るとなるともっとお金がかかるのでいいでしょう!)、結局微妙に一万円は越してしまったのだけれど(汗)、大満足of大満足の休暇となりました。

 

4月28日。この日は前々から2つの映画を観に行こうと期待して待ちわびていた。『アベンジャーズ /インフィニティ・ウォー』と『君の名前で僕を呼んで』である。前評判で、こちらの2作品は全く違うベクトルでその頂点に位置する映画であると聞いていたのだけど、まさしくそのとおり。前者に関しては、完全にヒーロー映画に嫌気がさしていたタイミングであったし、マーベルのユニバース作品を映画館で追うのはやめようと『ブラックパンサー』を諦めたという経緯があったのにもかかわらず、すごく楽しんでしまった。はしゃぎ倒した。ヴィランであるサノスの人間味あふれる感じに涙が出そうになったし、各ヒーローの見せ場の作り方も驚くほどうまい。もちろんいつもどおりツッコミ所を挙げればキリがないのだけれど、それを補って余りあるエンタメのパワーを感じた。『君の名前で僕を呼んで』は美しい作品であると感じたけれど実はそんなに心に刺さらなかった。しかし何と言ってもティモシー・シャラメ‼︎才能が爆発してて惚れちゃった。

 

4月29日。この日は夕方まで出稼ぎをしていた。夜に家に帰り、録画していた『宮本から君へ』の3、4話とプライムビデオの『ドキュメンタル』を消費した。今クールのドラマ、『コンフィデンスマンJP』と『花のち晴れ』もちょくちょく観てはいるけれど、安心して観れるのはこの『宮本から君へ』だけかな。1、2話だけの出演だったけど三浦透子さんは素晴らしかったし、なにより池松壮亮の泥臭い昭和青年感がたまらない。舞台は2018年現在なのだろうか。しかし時代錯誤というよりも失ってしまった感情を取り戻せそうな熱を感じて心を満たしてくれるドラマだ。

 

4月30日。新宿k’s cinemaで開催されている「台湾巨匠傑作選2018」でエドワード・ヤンの超長編映画「牯嶺街少年殺人事件」を観た。もう何というか、食レポで「熱い!」と言ってしまうアイドルの気持ちがわかってしまった。これは「長い!」と言わざるを得ない。要するに合わなかった。それでもこれだけだとちょっと納得がいかなかったので、後日ヤン監督の別の作品を観ました。

 

5月1日。仕事終わり、最近よく聞いていたカネコアヤノの新譜発売記念インストアライブを観にココナッツディスク吉祥寺店へ。f:id:bsk00kw20-kohei:20180508192511j:image開始5分前に到着した自分が悪かったのだけど、ものすごい人が押し寄せていて結局中には入れず、大きな窓越しに彼女の歌声を“見た”。それでもちょっとずつ漏れる力強い歌声と肩を弾ませる挙動で、なんとなく音が伝わり、全然楽しめました。しかしこんな環境だったがゆえに、彼女の歌声をもっと近くで聴きたいという欲が止まることなく膨らみつづけている。ということでカネコアヤノも出演する「下北沢サウンドクルーズ」というフェスに申し込みました。帰ってから相米慎二の『あ、春』を観た。この頃の作品は『台風クラブ』とかと比べると勢いは抑えめだけど、「生」を感じる作りはやはり一級品。現代的な家族映画の様相で、『お引越し』と比較してもちょっとやさしめだった。

 

5月2日。大橋裕之の短編集『シティライツ 完全版上巻』を購入し、ちまちま読んでる。

シティライツ 完全版上巻

シティライツ 完全版上巻

 

イッキ読みするのはなんだかもったいなくて。どれもこれもグッとくるお話ばかりなのだけど、今のところ「#6 朝倉兄弟」と「#7 流行語」、「#12 部長の恋」、「#19 夢で逢えたら」に心を打ち震わせられています。最高だ。『サッドティー』と『海炭市叙景』を鑑賞。空気感の違いすぎる映画を選んでしまったことに後悔するも、両作品ともにすぐ世界に没頭できるような作りで、非常に楽しめた。「ちゃんと好きとは?」みたいなめんどくさいテーマ設定をしがちな今泉作品も、今回のグランドホテル方式みたいにいつもエンタメとしてもちゃんとしてて、やっぱり好きだなと思った。

 

5月3日。東京にきて初の演劇鑑賞。キコ/qui-co.の『鉄とリボン』を観劇しました。近くでやってたから、という理由だけで観に行ったのであまり期待はしていなかったのだけど、これがすんごく面白くて、しまいには泣いてしまいました。母の日を目前にした素晴らしいタイミングでの封切りだったのではないだろうか。

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いい気持ちを保ったままエドワード・ヤンにリベンジ。ジャケットに惹かれて鑑賞した『恐怖分子』はかなりの逸品だった。画の力がすごすぎてうっとりしてしまうんだわ。そんで映画はやっぱりこれくらいの尺じゃないとね

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 5月4日。2010年ごろのオードリーのオールナイトニッポンを聴き返していたのだけど、オードリーのふたりがお互いの家族のことを罵倒しあう第58回のオープニングと第60回ベッキーゲスト回の初々しさと疲れているときに破壊衝動が止められないという若林さんのフリートークは何度聞いても腹抱えて笑っちゃいます。

 

5月5日。アップリンク渋谷で『彼の見つめる先に』を観た。別エントリーでも記しているとおり、傑作だった。こんなにも優しくて勇気づけられる作品があるだろうか。公開終了間際のすべりこみだったけど観てよかった。

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5月6日。ナカゴーの本公演ではない特別劇場『まだ気づいていないだけ』を観劇。週に2回も演劇をみるなんて贅沢極まりないですね。いやぁしかしおもしろかったなぁ、すんごく笑ったなぁ。今年度で言うと『ドキュメンタル』シーズン5のエピソード3に次ぐ2番目ぐらいにたくさん笑った。ホームページに載っていたあらすじとは全然違う感じで物語は進んでいくんですが、バラシ芸と呼ぶべきなのかなんなのか、あの独特な構成と会話劇の妙にすぐ虜になってしまいました。こんなことを毎回やってる劇団なのだろうか?それなら毎回観に行くぞ。

 

今週のお題ゴールデンウィーク2018」