縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

ストロベリーミルクシェイクを飲み干して/リン・ラムジー『ビューティフル・デイ』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180602112817j:image映像と音楽が響きまくる特異な映画。リン・ラムジーの演出はあれこれと想像したくなる余白に満ち、ジョニー・グリーンウッドの劇伴はセリフよりも雄弁に状況を物語る。この狂気と愛が混じりあった映画、それが『ビューティフル・デイ』。

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ジョーホアキン・フェニックス)とはどういう男だったのか?これは映画を観るだけでは断片的なことしか分からない。子どもの頃に父親からの虐待を受けていて、なにやら軍隊(FBI?)の活動に参画して子どもを助ける活動をし、現在は失踪した少女たちの救出を業務としていること。

Wikipediaのあらすじを見てみるとこれに関してはすごく詳しく書かれているけど、映画が語る情報だけで十分な気もします。要するにジョーは孤独で、いつ自死してもおかしくないくらいに不安定で、そして過去のトラウマから逃れられていないということ。

これは、リン・ラムジー監督の前作『少年は残酷な弓を射る』の主人公エヴァティルダ・スウィントン)とも似ているキャラクター造形だけど、一番の共通点は「過去のある出来事に縛りつけられ、克服できない」ところにある。最後には克服しようと試みるところまで。

車や電車が画面をバンバンと横切りながらも、画面の奥から手前へ(もしくは手前から奥へ)縦向きに移動することが多いジョー。あるいは上にいくエレベーターを無視して階段をのぼる彼のすがた。この「流れに乗れない」男は、幾度となく自殺を試み、人生を諦めようとする。

しかし、死ぬことさえも簡単ではなかった。そんなジョーの仕事は失踪した女児を救出すること。これには、父親からのDVを受けていた自分に似た「社会から阻害された子ども」という存在を救出してあげたい(=そのことによって過去のトラウマから解放されたい)という思いが垣間見える。しかしいくら救出を実行しても、まったく彼の心は救われなかった。そればかりか、軍人時代(WikiにはFBIとある)に経験した、救えなかった多くの人の姿すらも何度もフラッシュバックしてくる。このことによって、肉体は男らしくも本質的には誰も救えない存在であることが強調される。そんな折に現れたのが、ジョーの子ども時代によく似た、いわば“相似形の天使”ニーナだった。

似ている部分といえばその真っ白な肌が大人によって傷つけられていること、また、「カウントダウン」をして何かを待っていることだ。そのジョーとニーナは、すぐに心を通わせていく。f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113433j:image

ニーナがホテルで連れ去られる刹那に「ジョー!」と叫んだシーンも印象的であったが、取り上げたいのは、ニーナがおしっこをしているところを車の中ではなく、ちょっと離れたところでジョーが見守っていたシーン。このシーンを僕は、処女喪失=血のイメージと対比させているのではないかと思ったのです。血ではなく(少し濁った)水で繋がるふたり。これはコトが終わるのをジョーが車の中で待っていたなら、空間が分断されて成立していなかったこと。

そしてこの場面を契機にすると、この映画が「血」と「濁った水」というコントラストを要所で使っていることに気づきはじめる。それは例えば、ジョーがナイフを口の中に入れようとした場面。その場面において母親から名前を呼ばれた彼は、やろうとしていたことを中断され洗面所に向かうことになります。そこで彼がしたのは、水浸しになった床をバスタオルで拭くという行為でした。この、「自殺」と「掃除」という相反する行動。母親とジョーもまた、血ではなく濁った水で繋がった関係。

もう一場面。それは母親が殺されているのを確認し、階下にいた男たちを銃で武装したジョーが襲うシークエンス。そこでジョーは母親を殺されたことによって怒りを爆発させるも、撃たれて苦しむ男、しかも家庭の存在やなにか背景を感じさせるその男に鎮痛剤のようなものを「ウイスキーの水割り」で飲ませました。その後一緒に歌を歌い、手を握って息絶えるまでの一連の流れ。ここに僕は得も言われぬ感情を抱いたわけですが、このふたりもまた、血ではなく濁った水で繋がることになった相似形の存在でした。

すべてを失ったジョーは母親を弔うために湖に向かうわけだけど、この場面でも「血」と「濁った水」の対比を感じることができる。ジョーは母親とともに水の中へ、まぁ一緒に死のうと試みるわけですがその瞬間、「カウントダウン」の声が“ふたつ”重なった。ジョーのカウントダウンは、それが終わることによる生からの解放を目指すもの、しかし彼は、もうひとりこの世界に自分と同じ存在がいて、その子はカウントダウンが終わった後に誰かが自分を助けてくれると信じて待っているということを再び思い出すことになる。それはもちろんニーナであり、過去のジョーでもあったのだ。そうして、湖の奥深くに沈んでいくニーナの幻想を見たジョーは、彼女を救うことができるのは自分しかいないと信じ、必死に泳いだ。「死体=血」を置いて。f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113657j:image

結果的に、カウントダウンをしても誰もやってきてくれないことを悟ったニーナは、自分で状況を変えてしまうわけだ。そしてもしかしたらジョーもそんな風にして父親を殺していたのかもしれない。どちらにしろ、ジョーはニーナを救うことができなかった。やっぱり自分には(ニーナも過去の自分も)救うことができないと悲観した弱い男は、ここでもまた自死を試みるわけだけど、そんなことは許されることではなかった。ジョーとニーナは計らずも「繋がってしまった」ふたりであるから、この濁った世界を一緒に生きていくしかないわけで。

Let’s go. It’s a beautiful day. 

そう言った彼女は、さわやかな笑みを浮かべる。どうやらニーナにはジョーが必要なようだ。そうして処女喪失(=血と精子の混ざり合い)を象徴するかのような「ストロベリーミルクシェイク」を飲み干した彼らは、どこへともなく姿を消した。

その先に笑いと涙があることを信じて。

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あとがき*1

*1:原題の「あなたはここにいなかった」の意味。ジョーには彼を救ってくれる人がその時にはいなかったということでしょうか。しかし注目したいのは「were」という単語。今はどうなのかと考えるとやはりハッピーエンドと捉えていいのかな。緑のグミが好きというのは、緑が赤の補色であるから血は好まないということの表れか。また、電話が繋がらないことによって「繋がり」が失われていく描写など、この映画は観れば観るほどいろいろなことに気づけそう。後半に連発するキューブリック的なシンメトリーの構図も鳥肌もんでした。最高っす。

それは幻想か、あるいは忘れてしまった現実か/ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180521215201j:imageなんて美しい世界なんだ。「“夢の国”のすぐ隣には辛く苦しい現実があった」というドロドロに腐りきったこの世界を映しておきながら、どうしてこんなにも彩り豊かで鮮やかになるのだろう。どうしてこの世界はこんなにも美しく、またそれを覆ってしまうほどに汚れているのだろうか。


僕はこの映画を観て自分にもたしかに存在していた「クソガキ時代」を夢想する。暇があれば川や公園に行き、ぐちょぐちょになって家に帰っていたあのときのこと。何の用もないのに駄菓子屋やスーパーを駆け回り、自販機のまわりにお金が落ちてないか漁ったり、道の向こう側に石を投げようとしたら車に当たってしまいバチバチに怒られたりしたこと。幼なじみとともに経験したその“冒険”には確かに幸せがあって、何もない田舎の風景も鮮やかな世界へと様変わりしていた。 f:id:bsk00kw20-kohei:20180521215224p:imageこの映画の描く世界を、モーテルの「部屋の中」と「部屋の外」に分けた場合、それはすなわち「圧迫された世界」と「自由な世界」ということになるだろう。そしてヘイリーを含めた大人たちは部屋の中にいて、ムーニーたちは外にいる。そう考えると、モーテルの停電や廃屋の火事などによって大人たちが部屋から飛び出すという画の動きは、ヘイリーが大人たちを自由の世界へ連れ出そうとしているようにも感じられる。たとえムーニーにそういった意図がなくても、大人たちはそれによって救われている。そしてジャンシーも、ムーニーによって外へ連れ出されたうちのひとりだった。だからこそ、ムーニーが圧迫された現実に引き込まれそうになる瞬間で、彼女はムーニーの救出に試みたのだろう。


その先が本当に自由なのか、なんてそんなのはどうでもよくて。だってこの経験がなければ、彼女たちはあのモーテルとこの社会に殺されていただろうから。

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「芸術のゴールデンウィーク!」と題してポップカルチャーを貪り喰らった一週間のこと

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社会人になってはじめてのゴールデンウィークだ。この頃、どうやら自分は孤独が好きではないらしい、と気づきはじめたのだけれど、そうは言っても友だちがあまりいる方ではないし、実家に帰るのもお金がかかるのでこのゴールデンウィークは孤独に、なんの予定もなく東京にいることになってしまった。ただ、家にずっといるというのも気が滅入るだろうと考え、この一週間、あらゆるポップカルチャーを貪ってやった。勢いでなんとなく予算は一万円に設定し(実家に帰るとなるともっとお金がかかるのでいいでしょう!)、結局微妙に一万円は越してしまったのだけれど(汗)、大満足of大満足の休暇となりました。

 

4月28日。この日は前々から2つの映画を観に行こうと期待して待ちわびていた。『アベンジャーズ /インフィニティ・ウォー』と『君の名前で僕を呼んで』である。前評判で、こちらの2作品は全く違うベクトルでその頂点に位置する映画であると聞いていたのだけど、まさしくそのとおり。前者に関しては、完全にヒーロー映画に嫌気がさしていたタイミングであったし、マーベルのユニバース作品を映画館で追うのはやめようと『ブラックパンサー』を諦めたという経緯があったのにもかかわらず、すごく楽しんでしまった。はしゃぎ倒した。ヴィランであるサノスの人間味あふれる感じに涙が出そうになったし、各ヒーローの見せ場の作り方も驚くほどうまい。もちろんいつもどおりツッコミ所を挙げればキリがないのだけれど、それを補って余りあるエンタメのパワーを感じた。『君の名前で僕を呼んで』は美しい作品であると感じたけれど実はそんなに心に刺さらなかった。しかし何と言ってもティモシー・シャラメ‼︎才能が爆発してて惚れちゃった。

 

4月29日。この日は夕方まで出稼ぎをしていた。夜に家に帰り、録画していた『宮本から君へ』の3、4話とプライムビデオの『ドキュメンタル』を消費した。今クールのドラマ、『コンフィデンスマンJP』と『花のち晴れ』もちょくちょく観てはいるけれど、安心して観れるのはこの『宮本から君へ』だけかな。1、2話だけの出演だったけど三浦透子さんは素晴らしかったし、なにより池松壮亮の泥臭い昭和青年感がたまらない。舞台は2018年現在なのだろうか。しかし時代錯誤というよりも失ってしまった感情を取り戻せそうな熱を感じて心を満たしてくれるドラマだ。

 

4月30日。新宿k’s cinemaで開催されている「台湾巨匠傑作選2018」でエドワード・ヤンの超長編映画「牯嶺街少年殺人事件」を観た。もう何というか、食レポで「熱い!」と言ってしまうアイドルの気持ちがわかってしまった。これは「長い!」と言わざるを得ない。要するに合わなかった。それでもこれだけだとちょっと納得がいかなかったので、後日ヤン監督の別の作品を観ました。

 

5月1日。仕事終わり、最近よく聞いていたカネコアヤノの新譜発売記念インストアライブを観にココナッツディスク吉祥寺店へ。f:id:bsk00kw20-kohei:20180508192511j:image開始5分前に到着した自分が悪かったのだけど、ものすごい人が押し寄せていて結局中には入れず、大きな窓越しに彼女の歌声を“見た”。それでもちょっとずつ漏れる力強い歌声と肩を弾ませる挙動で、なんとなく音が伝わり、全然楽しめました。しかしこんな環境だったがゆえに、彼女の歌声をもっと近くで聴きたいという欲が止まることなく膨らみつづけている。ということでカネコアヤノも出演する「下北沢サウンドクルーズ」というフェスに申し込みました。帰ってから相米慎二の『あ、春』を観た。この頃の作品は『台風クラブ』とかと比べると勢いは抑えめだけど、「生」を感じる作りはやはり一級品。現代的な家族映画の様相で、『お引越し』と比較してもちょっとやさしめだった。

 

5月2日。大橋裕之の短編集『シティライツ 完全版上巻』を購入し、ちまちま読んでる。

シティライツ 完全版上巻

シティライツ 完全版上巻

 

イッキ読みするのはなんだかもったいなくて。どれもこれもグッとくるお話ばかりなのだけど、今のところ「#6 朝倉兄弟」と「#7 流行語」、「#12 部長の恋」、「#19 夢で逢えたら」に心を打ち震わせられています。最高だ。『サッドティー』と『海炭市叙景』を鑑賞。空気感の違いすぎる映画を選んでしまったことに後悔するも、両作品ともにすぐ世界に没頭できるような作りで、非常に楽しめた。「ちゃんと好きとは?」みたいなめんどくさいテーマ設定をしがちな今泉作品も、今回のグランドホテル方式みたいにいつもエンタメとしてもちゃんとしてて、やっぱり好きだなと思った。

 

5月3日。東京にきて初の演劇鑑賞。キコ/qui-co.の『鉄とリボン』を観劇しました。近くでやってたから、という理由だけで観に行ったのであまり期待はしていなかったのだけど、これがすんごく面白くて、しまいには泣いてしまいました。母の日を目前にした素晴らしいタイミングでの封切りだったのではないだろうか。

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いい気持ちを保ったままエドワード・ヤンにリベンジ。ジャケットに惹かれて鑑賞した『恐怖分子』はかなりの逸品だった。画の力がすごすぎてうっとりしてしまうんだわ。そんで映画はやっぱりこれくらいの尺じゃないとね

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 5月4日。2010年ごろのオードリーのオールナイトニッポンを聴き返していたのだけど、オードリーのふたりがお互いの家族のことを罵倒しあう第58回のオープニングと第60回ベッキーゲスト回の初々しさと疲れているときに破壊衝動が止められないという若林さんのフリートークは何度聞いても腹抱えて笑っちゃいます。

 

5月5日。アップリンク渋谷で『彼の見つめる先に』を観た。別エントリーでも記しているとおり、傑作だった。こんなにも優しくて勇気づけられる作品があるだろうか。公開終了間際のすべりこみだったけど観てよかった。

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5月6日。ナカゴーの本公演ではない特別劇場『まだ気づいていないだけ』を観劇。週に2回も演劇をみるなんて贅沢極まりないですね。いやぁしかしおもしろかったなぁ、すんごく笑ったなぁ。今年度で言うと『ドキュメンタル』シーズン5のエピソード3に次ぐ2番目ぐらいにたくさん笑った。ホームページに載っていたあらすじとは全然違う感じで物語は進んでいくんですが、バラシ芸と呼ぶべきなのかなんなのか、あの独特な構成と会話劇の妙にすぐ虜になってしまいました。こんなことを毎回やってる劇団なのだろうか?それなら毎回観に行くぞ。

 

今週のお題ゴールデンウィーク2018」

 

スイートな“恋の始まり”と束縛からの解放/ダニエル・ヒベイロ『彼の見つめる先に』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507200912j:image2010年代になってアカデミー賞ほか世界の映画祭で大きなテーマとして掲げられてきた「多様性」についての一連の考察は、本作において一つの重大な回答を示したのではないだろうか。そう思えるほどに優れた映画であると感じたし、なによりも、すんごくおもしろかった。

 

本作の魅力は、ハートフルでスイートな語り口から発せられる“恋のはじまり”の描写とそこに内包された強い思い(すなわち監督からの提案)にある。物語がはじまって画面いっぱいに広がるのは、うっとりしてしまうような甘美な空間であった。
冒頭、1組の男女がプールの淵に寝そべり、ヒマを持て余しながらだべっている模様が描かれる。この場面において、どうやら男の子の方(レオ)は目が不自由なのだろうということと、男女の間には深い絆があること、女の子の方(ジョバンナ)はその目線の細かな動きによって(性的な意味かは別として)レオのことを深く愛しているのだろうということを感じとることができる。その後も数分間、この2人が学校でも、登下校中も、また放課後も常に一緒に行動している描写が続くことによって彼らの親密さが強調されながらもしかし、日常的な会話や彼らの仕草から、彼ら2人は恋人関係にはないということが徐々に明らかになっていく。

まず、もうひとりの重要人物が出てくる前のこの冒頭の映像がたまらなく愛おしい。セリフではなく目で語る場面が多いし、レオに至っては目線でもセリフでもなく、仕草で語ってみせている。目が見えないからこそセリフで多くを語る映画は多いと思うけれど、本作はその不自然さを回避しながら、雄弁な語り口を獲得していた。とりわけ、ベッドの上でふたり反対向きに横たわって会話する場面が愛らしくて大好きです。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507203840j:imageいつも一緒に歩いているふたり。この愛おしい日常が変わらずに続いていくのかと思いきや、レオは突然「アメリカに留学したい」と言い出す。これには劇中のジョバンナもレオの両親も、そしてわたしたち観客も驚かされることになる。彼は人知れず、環境を変えるという「変化」や両親による束縛からの「解放」を求めていたのだ。そしてここに来て初めて、これまでに少しずつ挟まれていた過保護に息子を扱う両親の姿が、一般的な家庭の親子のそれよりも過剰であることに気づくのだ*1

そのように変化を求めていたレオのもとに、転校生であるガブリエルがやってくる。そうして彼はレオに「変化」を運んでくる。

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すぐにレオと仲良くなったガブリエルは、ある日彼に「映画を観に行こう」と提案する。すぐにその提案の違和感に気づきガブリエルはレオに謝るのだけれど、画面が切り替わるとふたりは映画館に。映画内で起こっている出来事を事細かに教えてもらいながら楽しそうに鑑賞するレオの姿には、今までにない笑顔が満ちていた。また、こうした描写は映画だけに留まらず、月食観測やダンス、自転車、そして“恋”をすることによるキスと幅を広げていき、そのことによってレオの視界は大きく大きく広がっていく。

今までにやったことがないことではあるけれど、もちろん不可能なことではないこれらの行動。「恋とは」という問いについて考えたときに真っ先に考えつくのは、このように嫌いだったものを好きになったり、目の前の世界をまるごと変えてしまうような経験ではないだろうか。そのことが直接的に彼の「束縛からの解放」を示唆していく。

わたしたちは時おり、他人をイメージや型の中に嵌めようとしてしまい、また自分自身をもイメージや常識で縛ってしまう。しかし目が不自由だからといって映画や月食を観れないわけではないし、ダンスを踊ることや自転車に乗ることを恐れる必要はない。アメリカにだって留学できるし、もうなんだってできてしまう。そしてこれはレオだけでなく、わたしたちにも同じことが言えるのだ。そんな大事なことを教えてくれたのが、ちょっと無神経で優しさに溢れたガブリエルという青年だった。

この映画には前述したとおり、ジョバンナという素敵な女性が登場する。彼女とともに過ごしている冒頭のシーンは心が温まるし、退屈な情景もすごく楽しそうに見える。しかしレオが求めていたのは「変化」であって、それはそのままガブリエルであり、ジョバンナではなかったのだ。ガブリエルが登場してからのレオといったら、それはそれは輝いていて、レオの心が色づいていくさまはなんとも美しく、暖かかった。

ラストシーン、自転車で未知なる世界へと駆け出していくレオとガブリエルの美しい画。「先入観からの脱却」や「可能性の渇望」というものの重要性をこの映画は教えてくれた。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507223509j:image「彼の見つめる先に」予告編 - YouTube

 

*1:「一般的」という言葉をこうゆう場面で使うのは危険だと思うのですが、要するに、両親はレオを束縛しているということです。そしてこの意見は、目が不自由であるから両親は当然そのような行動をとってしまってもおかしくないと考えた上でのもので、それでもやはり、可能性を慮ることの重要性を感じたのです。

伝染する空虚と届かぬ愛/エドワード・ヤン『恐怖分子』

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惚れ惚れする印象的な画を並べるためだけのエントリーです。

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本作『恐怖分子』における均整の取れた美しい画の根底にあるのは、ビルやマンションの窓、写真、鏡などの四角形。これはおそらく、この映画における4人の主要人物を表している。妻と暮らす現状の生活に満足しながらも職場では次期課長のポストを狙うリーチュン、その妻で小説家のイーフェン、兵役間近で不安定なカメラマンの青年・シャオチャン、彼が一目惚れすることになる混血の不良少女・シューアン。

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冒頭、誰もいない部屋の窓に銃弾が撃ち込まれ、ガラスが飛散する。都市に散らばる見知らぬ4人が不意に交わることによって、4人の心は砕け散ってしまうということの暗示。この映画の残酷なところは、まったく「うまくいかない」ところにある。ずるずると悪い方向に話が進んでいき、「飛び散る」という最悪の結末に収斂されていくところに。空虚や不安、恐怖は簡単に感染し、愛や思いやりはまったく向かうべき場所に導かれないところに、この物語のいやらしさとこの世界の真理がある。

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電話線を伝う悪意と恐怖、不安。届かなくてもいいはずの写真はシャオチャンの彼女を悲しませ、最終的にリーチュンの元へ。届いてほしい愛は、届くはずのものには見過ごされ、彼らは部屋から姿を消してしまう。「届くはずの愛」という意味で一番気になってしまったのは、リーチュンとイーフェンが暮らす家にある洗面所だ。リーチュンは医者という仕事柄からか、家に帰ってくると入念に手を洗うのだけれど、彼はいつも手を拭かない。そこに違和感を感じるのは洗面所に10枚以上のタオルが掛けられているからである。手を拭かない人がタオルを掛けているなんてことはありえないわけだから、あれはイーフェンによって掛けられているということになるだろう。彼女によるリーチュンへの“想い”はこの映画ではあまり語られないけれど、この違和感で埋め尽くされた画に、彼女の想いを感じ取れるような気がする。しかし、彼女の愛は届かなかった。

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呪い祝われ、わたしたちはここに立つ/キコ qui-co.『鉄とリボン』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503155326j:image座・高円寺2で催された演劇グループ キコ/qui-co.の第10回公演『鉄とリボン』を観劇してきました。東京へ移り住み、前々から興味のあった演劇についに触手が伸びた。演劇を観るということ自体ほとんど初めてに近かったのだけれど、これでよかった、と心底思える作品でした。観に行ってよかったと。思えば子どものころから僕は「生(なま)」のものに惹かれていました。というより生のものしかあまり信じることができなかった。生放送や生中継から、人と会うということや人の声を聞くということまで。本質的に、「虚構」や「フィクション」ではなく「実物」に惹かれていたのでしょう。そんな僕が映画を好んで観ているというのも変な話なのだけれど、映画のような完全なる虚構はエンターテイメント、もしくは時代の映し鏡としてすごく楽しめる。一方で実在するものはやはり生で実物を感じたかった。

演劇は「生」だ。物語はフィクションだけれどそこには実物が存在する。あの人が、あそこに、立っている。

 

『鉄とリボン』。幻想的な物語です。舞台は地図にない町。暖かく小さな島。そこには遊郭があり、「はなよめ」と呼ばれる女性たちが住んでいる。この「はなよめのまち」には時おり、外の世界から「カウラ」と呼ばれる男たちが「はなよめ」を求めてやってくる。遊郭に閉じ込められた「はなよめ」には名前がなく、この男たちに名前をつけてもらい、外の世界へともに旅立つことが唯一の生きる道でした。

物語の前半は、「夢のような」という言葉が一段と似合うような幻想的な場面展開で、このファンタジー世界の全貌を見せていきます。とりわけ、心に沁みわたるような歌とクラップ&ステップのパワフルなダンスが印象的で、すぐにこの世界観に埋没していくことに。しかしこの段階では、一体何が起き、どこを目指しているのかが全くわからず「あ〜綺麗だなぁ」という陳腐な感情しか生まれない。

伏線が回収され、すべてが明らかになるのは後半に入ってすぐのことでした。

それは、この世界に住む人ならば誰もが知っていて、また経験してきたことに関しての反芻でした。なぜわたしたちはここに在り、立っているのか。なぜ「死」は忌み嫌われ、「生」は尊いのか。なぜわたしたちは「生まれる」のか。

本公演では「お母さんの子宮内」を「はなよめのまち」に置き換え、ファンタジックにその高尚さを物語ってみせていた。人が生まれるということについて今一度その尊さを知り、何度も涙が頰をつたった。

この演劇の表すテーマというものは、おそらく「生まれる」という一事象には収まらないのだろう。要するに、この街に住み、たくさんの人に出会い、あの人に恋をし、大いなる夢を見るということまで、すべての物事にその根源となる親や友がいるということ。そしてそのものたちはわたしたちを祝福しているということ。

ときにわたしたちは呪いに押し潰されそうになることがある。貴い祝福と拠りどころを、忘れそうになることがある。それでも歌い続けることに意味がある。歌っていればまた思い出すだろう。あの夢の世界で大きな野望を一緒に抱いた、兄弟たちの姿を*1

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*1:もっとちゃんとした文章を書きたかった。ともかくめちゃくちゃ良かった。次の公演も観に行こう、と決めるには十分な出来でした。

彼は彼女に魅了され/岩切一空『聖なるもの』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180415125101j:image『聖なるもの』本予告編 - YouTube

「新時代の到来」と噂される岩切一空監督の長編最新作『聖なるもの』を観た。初日の舞台挨拶付きで。これがすっごく変な映画で、頭にこびりついて離れないシーンとかしょうもないセリフとか、ガンガン鳴り響く音楽とか可愛さのゴリ押しとか、とにかく「興味深いもの」が混在してて一日経った今でも頭がぐっちゃぐちゃになってしまっているので、この映画の表すものを整理すべく、とりあえず文章を書こうと。基本的に変な映画を観た後は整理しないまま放っておいてしまうめんどくさがりやな性格なんだけど、それでも文章を書こう、と思わせてくれてるだけでこの映画を自分は面白いと感じているのだと自覚する。たぶん、面白かった。

 

さて、岩切一空という監督を知ったのは「WOWOWぷらすと」の2017年ベスト映画セレクトの回を観てのことだった。これは、宇野維正さんや松崎健夫さん他6人の映画評論家たちがその年の映画ベスト10を決めるという放送回で、番組の構成として、まずは1月から順に「ベスト10に入れたい映画」を総ざらいしていくのだけれど。基本的には「あーそれね、よかったよね」とシネフィル気取りでウンウン頷きながら見て、時に知らない映画が出てくると己の不勉強ぶりを呪って急いでネットで調べたり、そんな風に楽しんでいた時に「岩切一空」という監督の名を知ったわけであります。松崎健夫さんが「7月期の推し映画」で選んでいたのが同監督の『花に嵐』という作品でした。その時は「ふ〜ん。若いやつが頑張ってんなぁ」くらいにしか思ってなかったのだけど、それから数ヶ月、東京に移住した私の住んでいる所の近くでこの監督の映画が上映されるということを知り、松崎健夫が絶賛したその味を知りたくて思わず駆け込んだのでした。いざポレポレ東中野へ。

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大学(早稲田)の映画研究会に所属する3年生・岩切(岩切一空)が主人公、そこに謎の女性・南(南美櫻)とカリスマ的女子大生映画監督の小川(小川紗良)が絡み合ってくる。本人が本人役を演じながら虚実入り混じったように展開する本作は、いわゆる“フェイクドキュメンタリー”の手法をとり、基本的には岩切によるPOVで進行する。

この『聖なるもの』という作品は、岩切一空という男が好きなものを好きなように撮っているという印象が大きく、ホラーやSF、青春ラブコメなど様々なジャンルを横断しながら、もうぐっちゃぐちゃに展開していく、それこそ劇中の小川が言う「客観性のない独りよがりな映画」という言葉がぴったり当てはまるような作品だ。これの良し悪しは後述するとして、しかしながら、本作はそんな無秩序なストーリーテリングでありながらも、一本の軸(問い)はしっかりと通してある。それは、「映画を撮るということ」についてあるいは「この世界で生きるということ」についての自問自答。言い換えれば「聖なるもの」を撮らざるを得ない“彼の衝動”についての自照。

4年に一度現れるという「伝説の少女」に選ばれた岩切は、ひとたび彼女に魅了され*1、訳の分からない脚本を書きながらも、人間離れした彼女の姿を描写していく。この“南”という女性の撮り方が、ホラーにもSFにも青春映画にも様変わりしていくような多彩さを見せていてインパクトがすごいのだけど、途中から「あれ?南より小川の方が出てる時間長くね?」と気づいてしまう。はてどうゆうことか。本作が、「南を撮ることによって大傑作映画を生み出す岩切のメイキングと日常の映像」を描写した映画になるのかと思いきや、なんか途中から「南美櫻、小川紗良、半田美樹、松本まりか等、自分の好きな人を撮って楽しんでいる岩切一空」を描写した映画へと構造を変えていくのだ。ちょっと難しくなってきた。

 

日舞台挨拶で「ちょい役だったはずの小川さんの出演時間が(劇中と同じく)段々と伸びていったみたいですが、どうしてですか?」という司会者の問いに対して岩切監督は「それはもう…そうゆうことじゃないですか?もっと撮りたくなったから…です」と答えていた。

要するにそうゆうことだ。劇中の「新歓の怪談」における“南”と同じく、撮らなければいけないという衝動に駆られたのだろう。それは彼女たち、あるいは本作に登場するすべての人間、またはこの世界が「聖なるもの」であると監督は感じてしまったから。そしてその聖なるものを撮るということは彼がこの世界を生きる方法でもある。宇宙よりも広いもの、この世界の外にある別の世界、なんて答えのない大きな問いにぶつかっていくことも含め、「映画を撮る」ことが「生きること」であると彼が大声で叫んでいる映画である、と私は感じたのだ。そしてそのほとばしる衝動に、同世代に生きる若者としてもの凄く、グッときてしまった。

新入生A「これYouTuberですか?YouTuberじゃないんですか、これ?」

岩切「YouTuber?いやこれ、YouTuberじゃないです…。映画の…。映画です…」

YouTuberというのは、自由に、撮りたいものを撮り、もちろん自主制作で、時には犯罪スレスレで危険なものを映し、聴衆を沸かせ、それを生業にしている人々のことを言う。そして本作における「独りよがりで客観性のない映画を撮る岩切」という男はこの特徴に合致する。しかし、彼の表現方法はYouTubeではなく映画である。子供が将来なりたい職業ナンバーワンで若者に人気の「YouTube」ではなく、大学の新入生には見向きもされない「映画」である。ただ、岩切監督はYouTuberを否定しようとしているわけではないと思う*2。実際、劇中の橘先輩と青山によるYouTube動画はちょっと面白そうだし、ふらっと見てみたくなるクオリティだ。しかし、同じ「映像を撮るもの」としては明らかに「目的」が違っている。カメラを回せばYouTubeかと問われる時代に、YouTuberと同じく自分の好きなものを撮りながら、しかし自分はYouTuberではないと語る彼の心のうちとは。

まぁそんな難しいことは考えなくていい。「この世界の真理」を映しだそうとする岩切一空と、完成図が想像できずともその情熱に引き寄せられていった出演者たちの魂の共鳴に、私の心も震えてしまったのだ。YouTubeにはない熱量と、YouTubeばりの気軽さがこの映画にはある。
若者よ、映画館に走れ!(笑)

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*1:この海の場面のSF感がたまらない!アレックス・ガーランドの映画を観てるみたいでした。

*2:僕はすごい好きです