縞馬は青い

書くがまま。

まどろみのなかで出会ったふたり/関根光才『生きてるだけで、愛。』

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夜を描く映画ってなんだかものすごく惹かれてしまう。直近でいうと『きみの鳥はうたえる』がそうだったように、本作はもうポスターを見ただけで好きな映画なんだろうなと確信していた。結果すごく好きな映画だった。


夜は暗い。ちょっと怖くなるくらいに夜は暗い。でもなんだか、日常から切り離されたその時間は心地よく感じる。*1私たちの夜は夢と現実を行ったり来たりしながら、でも感覚的には数秒で、明るい朝に移り変わってしまう。本作がおもしろいのは、夜と日中、暗さと明るさ、夢と現実、生と死、自由と不自由などの事象が対比され、登場人物がその間を頻繁に行き来しつつ、そのことによって最終的に人と人との出会いの尊さが描かれていくところにある。

 

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主人公の寧子(趣里)は鬱が原因で過眠症になっている女性。物語の序盤なんかは常に眠っていて、夢と現実の狭間でまどろんでいる姿が印象的だろう。津奈木(菅田将暉)が彼女に出会ったのは、ある日の飲み会のこと(これなんの飲み会だったんだろう)。酔っ払った彼女は、「みんなに見透かされてるような気がして」と言葉を漏らし、不自由さから解放されるように夜に向かって走り出した。その姿を見た津奈木は、少しの共感と憧れを抱いたのだと思う。

 

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場面は飛んで彼らが同棲して(寧子が津奈木の家に転がりこんで)3年が経過。2人は別々の寝室を持っていて、寧子はずっと寝ているからふたりが出会うのは夜ご飯を食べる時くらい。「焼きそばと親子丼どっちがいい?」という津奈木の問いかけから、会話はほとんど発展しない。

 

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常にまどろんでいた寧子は、あることをきっかけにアルバイトを始めるようになる。不自由だけれど、無性に生きている感覚を得られる日中の世界に身を置くことに。そうしてようやく日中の世界に生きる津奈木と話が合うかと思いきや、彼は彼でゴシップ誌のライターという仕事に飽き飽きし、夜の闇にいざなわれようとしていた。アルバイトの出来事を楽しそうに語る寧子に、「いいから寝かせて」と言って部屋の扉を閉めてしまう場面がなんとももの悲しくうつる。


そういったすれ違いも含め、彼らふたりは「ほんの少しだけ」わかりあえた存在だった。死にも似た夢の世界に逃避してしまうことや、見透かされることのない自分だけの自由な世界を求めたこと、頑張ろうとするとすぐに闇が襲ってくる(停電してしまう)この世の生きづらさなど多くを共有していたものの、夜の世界はふたりでは生きていけない、危険な死の香りが漂っていた。でもその「ほんの少しだけわかりあえた」という事実が、明日の夜の闇を照らして歩きやすくしてくれるのだと思う。それを教えてくれただけでも、すごく豊かな3年間だった。

 

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*1:“夜”は、その「怖さ」と「自由さ」の2つの顔を持っているからこそ魅惑的で、あらゆる人生の物語を暗示しうる。

戒めの映画日記ーー薄給社会人1年生のくせに1ヶ月で16本も映画館鑑賞してしまったことへの。

過ぎてしまったことは仕方がない。と、いきなり開き直る。なんかお金の減り方が半端ないなと思って数えてみたら、今月16回も映画館に通っていたのだ。数えるまでは10本くらいだと思ってたのに、まぁそれでもやばいのだけど。これはお母さんが知ったら驚かれるだろうな…。しかし本当に、過ぎてしまったことは仕方がないのだ。これだけインプットをしたからにはアウトプットにも尽力すべき。そうでないとたくさん見た意味がないので今月見た16本をレビューすることにする。

以下鑑賞順。

 


『愛と、酒場と、音楽と』

3つの短編映画からなるオムニバス映画。昨年の映画『月子』や去年の大河ドラマ『直虎』とかも出てて俳優としても活躍している井之脇海くんが監督を務めた短編と新進映画監督兼女優の小川紗良さんの短編に惹かれてユーロスペースへ。16本のなかで一番後悔したやつだ。井之脇監督の1作目がかろうじて見れたくらいで、特別どれもおもしろくなかった。小川さんの『BEATOPIA』と言う作品の中で、主演でもある小川さん(作中ではドキュメンタリー映画を撮っている)がドキュメンタリーに自分の演出を加えちゃっていて、なんかイラっとして思考力が閉ざされてしまった。

 


アントワーン・フークアイコライザー2』

アントマン』の2作目とか『デッドプール2』とか、最近“2作目”に全く手が伸びないでいるのだけど、これは別腹。アクション映画のなかでロバートマッコールさん(デンゼルワシントンさん)が一番好きだ。内容はもう忘れたけど。

 


高坂希太郎若おかみは小学生!

SNSで話題すぎて見るしかなくなった系の映画。最近多いなそういうの。個人的にアニメ映画は当たる可能性が低く、フレンドリーな幽霊が出てくる作品が苦手という難点がありつつ、本作、ちゃんとおもしろかった。ていうか普通に泣いたんだった。最初から強い女の子に見えるヒロインが、実はそんなことはなく、感情をあらわにするたびにだんだん強くなっていく姿がじんわりくるんだわ。

 


ナタウット・プーンピリヤ『バッドジーニアス』

これも上に同じな理由で鑑賞。上に同じな感想。危なげない完走。大きすぎる反響。

クライム映画と言われると物足りなくて社会派映画と言われると少しもやっとする。ただカメラワークとかがすごくて大興奮だった。見なくてもよかった映画なのかもしれない(今後のスマートな映画鑑賞のための断捨離的なブログであったことを思い出した)。

 


佐向大教誨師f:id:bsk00kw20-kohei:20181028224526j:image

大杉漣さん最後の主演作ということで観に行ったけどこれはすごくおもしろかった。教誨室というところ(まぁ面会室みたいなとこ)で死刑囚と教誨師(教えを説く人)がただひたすらに会話を重ねる114分。死刑制度や罪と赦し、生きていくことについてなど、内包するテーマがすごく深く、大杉漣さんと観客との最後の対話のような側面もあって「終わってほしくないな」「考え続けないとな」という感情を抱かせる。会話だけで物語や人の関係がグラつく正統派な会話劇をやっている。

 


デヴィッド・ロバート・ミッチェルアンダー・ザ・シルバーレイク

途中が長すぎた。期待度が高まりすぎて、あんまり…となってしまう典型パターン。A24作品はみんな絶賛するけど個人的にたまにこういうこともある。『ムーンライト』『パーティで女の子に話しかけるには』などなど。A24作品は軒並み出てる俳優がドンピシャすぎて見ちゃうんだけど断捨離しなきゃ。とは言ってもさすがにこの勢いからすると時代に逆行することになるか(結局見るんだろうな…)。

 


ジョン・クラシンスキー『クワイエット・プレイスf:id:bsk00kw20-kohei:20181028224647j:image

人生でホラー映画5本くらいしか見てないから簡単に言っちゃうけど、これホラーで1番好きだわ。ホラーと言っても敵が幽霊じゃなくて怪物な点(幽霊ってのは想像掻き立てられてしまうので怖すぎて無理)と大好きな「スリラー映画」と「家族映画」に分類される点、クライマックスの夜のシーンが無意識に心を湧き立たせる点(映画原体験のひとつ『ハリーポッターと炎のゴブレット』の影響だと思う)が最高。横にいた友達が明転後すぐ「おもしろくなくない?」と聞いてきたので「おもしろいよ」と返した。

 


山中瑶子『あみこ』f:id:bsk00kw20-kohei:20181028224116j:image

勝手にガールミーツガール系の映画だと思っていて慌てて見たのだけど一番の力点はそこではなかった。監督は弱冠21、2歳らしいのだけどものすごいシネフィルで本作にもオマージュがたくさんあるらしい。途中でいきなり3人の男女がダンスを踊り始めるシーンがあって、これはゴダール『はなればなれに』のオマージュか!と色めき立ったら、そのシーンをオマージュしたハルハートリー『シンプルメン』のオマージュだったらしく、「うわ~こいつ…」ってなった。踊ったあとに「日本人は勝手に体動きださねぇんだよ」みたいに吐き捨てるセリフもいい。世紀の女の子映画『21世紀の女の子』にも名を連ねてるけど、日本映画の未来は明るい、ていうか今現在の日本映画の幅の広さを感じて興奮した。

 


山田尚子リズと青い鳥f:id:bsk00kw20-kohei:20181028224126j:image

傑作。4月に公開された映画、ユジク阿佐ヶ谷で『少女邂逅』とともに上映されていたので今さら鑑賞した。ブログも書いたけど今年やけに多い「ガールミーツガール系」の映画。アニメってこんなすげぇことできるんだなってのが一番の驚きで、手足の細かな動きとか声のトーンとかがグサグサと刺さりまくって大変だった。ちょっとモヤっとする、定型にはまらない終わり方がまたいいんだよな。

 


大森立嗣『日日是好日

この映画に関しては「希林さんの登場シーンで泣いた」以上の感想がない。もっと希林さんの言葉を聞きたかったな。あのおもしろさを味わいたかったな。

 


廣木隆一ここは退屈迎えに来てf:id:bsk00kw20-kohei:20181028224139j:image

これは刺さった。自分の境遇や今の環境、未来、に則しすぎていて他人事にできない映画だった。とりわけ、ゲーセン、ファミレス、ラブホといった地方都市のアイコンがそれぞれの姿を見せている(退廃したり、変わらず賑わっていたり、常に気だるそうだったりしている)のが登場人物とも重なっていて印象的。2018年を彩るバイプレイヤーといえば渡辺大知と伊藤沙莉だよなぁ。なんか愛らしいこの2人を対比してみたくなる。

 


白石和彌止められるか、俺たちを

映画よりも満島真之介さんと岡部尚さん(最近濱口竜介作品を数本見てたからお目にかかれてよかった)が登壇していた舞台挨拶の方の熱気にやられてしまった。2人の映画人の熱を直に感じ、もっと頑張らなきゃって自然と思える。落ち込んでいる若者に「もっとやってやろうぜ!」と勇気を与えてくれる作品だ。

 


スタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅IMAX上映

去年初めて観て、これは絶対に死ぬまでに一度でいいから映画館で観たい!と思ったやつ。こんなにすぐに見れるとは。『インターステラー』もそうだったけどこういう系、2回目は結構眠いね。ただクライマックスは圧巻だった。キューブリックの映画を映画館で観るってこんなに贅沢なことはないよ。

 


玉田真也『あの日々の話』f:id:bsk00kw20-kohei:20181028224156j:image

東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門。16本に達してしまったのはこの映画祭のせいでもある。これに関してはもうしょうがない。さて『あの日々の話』。劇団・玉田企画の同名舞台を映画化した作品だ。夏に観劇した『バカンス』もそうだったけど会話劇によって人間の多面性が浮き彫りになる様が気持ちよすぎる。たくさん笑った。手で膝を叩いちゃうくらい笑った。マウンティングと性と友情についての、おぞましくもおかしい、これでもか!と人の裏側がむき出しになり続ける100分間の密室会話劇。刺激的な会話の応酬に、シドニー・ルメットバカリズム濱口竜介を感じた。役者は元の舞台と一緒だと言うから、その演技は完成されすぎてて鳥肌が立つレベル。ちょい役太賀くんと村上虹郎くんも存在感はすごいのだけど、ほとんど見たことない俳優の中でも彼らが全然浮かないのが、他の俳優たちの強さなんだよな。忘れかけていた大学生の楽しさと気だるさを少し思い出しながら、六本木のハロウィンの空気から逃げるように家路についた。

 


今泉力哉『愛がなんだ』f:id:bsk00kw20-kohei:20181028224221j:image

こちらも東京国際映画祭。やはりおもしろい。今泉監督はツイッターとかを見ていると(ツイ廃なので)大したことなさそうに見えるのだけど、いざ映画を見てみるとやっぱすげぇ人だ!ってなる。今月は宮部純子さんの演劇『お見合い』のアフタートークでも今泉監督を拝見したのだけど、そのときのコメントもあぁすごい視点だなぁって感じたんだけど、今日の上映後のQ&Aはもっとすごかった。常に「誠実さ」を感じる監督だ。時には言わない方が良いことも言ってしまう。本作も「誠実さ」が軸にある映画だと思う。というより段々登場人物たちみんなが誠実さを意識しだすというか。(名前が出てくる最後のシークエンスは誠実さのリレーだと思う)

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今泉映画は自然の成り行きで共感させられてしまう。まるで折り紙を折るように、人の面と面が重なり合って同質化していくのが気持ちよく、やがて私たちたちにも重なってきてドキッとする。今泉映画の醍醐味のひとつだ。面といえば本作は麺の映画でもある。アルミ/土鍋うどん、カップ麺/ラーメンの対比から感情が透けて見えるのがつらい。とにかく全役者魅力的すぎるんだけど、なんと言っても岸井ゆきのさんが最高。つまんなそうな顔とにやけ顔の往来がかわいすぎる。KANA–BOON『ないものねだり』のあの不貞腐れた女の子が、東京国際映画祭の舞台に立っているなんて、到底信じられないし、でも当然なような気もする。もっと書きたいことがあるんだけど公開は来春らしくて今語っても全く需要がないので、来春まで我慢する。角田光代原作だけど極めて今泉印な映画だった。


16本目は10月30日鑑賞予定ののロン・マン『カーマインストリートギター』。こちらも東京国際映画祭。理由はわからないけど予約済み。自分が怖い。


ということで16本。これだけ見てもほとんどハズレがなかったのだから、映画って怖いわ。でも芸術の秋だったからってことで、自分で自分を許してあげようと思う。

“ガール・ミーツ・ガール映画”が救う世界──『少女邂逅』から『カランコエの花』、そして『21世紀の女の子』へ

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サムネイルはロロという劇団の演劇で少女2人の物語を描いた作品。

映画以外にもガールミーツガールが暑かった今年の夏

 

今年の日本映画界、すごくないっすか? 2016年の勢いをもう一度取り戻しているように見えるのだけど、あの時とも少し違うなっと思うのは、いわゆる「ミニシアター」で上映されるようなローバジェットな映画がとんでもない動員数を示していること。『カメラを止めるな!』はもはや言うまでもない盛り上がり、『寝ても覚めても』は『万引き家族』とともにカンヌに正式ノミネートされ、公開後も同日公開の『きみの鳥はうたえる』とともに邦画のニューウェーブとして注目を集めた。今現在は『若おかみは小学生!』がSNS等の口コミでジワジワと広がりを見せている。『カメラを止めるな!』から生まれた“ポンデミック”という言葉に象徴されるように、SNSの力もあって“いい映画”が毛細血管の奥の奥まで流れていく世界になった。

 

そんななか本稿で取り上げたいのは、2018年の邦画界ーーとりわけミニシアター邦画界を語る上で欠かせない、「ガール・ミーツ・ガール」というジャンルをつくりあげている映画の隆盛についてだ。

 

「ガール・ミーツ・ガール」って?

少年が少女に出会うことによって物語がドライブしていく「ボーイ・ミーツ・ガール」という物語の類型はいわば映画の定型である。それはときに恋愛に発展することもあるし、ジブリ映画なんかでは友情にとどまることも多い。それが今、少女と少女が出会う「ガール・ミーツ・ガール」の物語へと幅の広がりを見せているのだ。まずは今年公開されたものをザッと挙げてみよう(漏れもあると思います)。

 

山田尚子リズと青い鳥f:id:bsk00kw20-kohei:20181020111046j:image

枝優花少女邂逅f:id:bsk00kw20-kohei:20181020111109j:image

湯浅弘章志乃ちゃんは自分の名前が言えないf:id:bsk00kw20-kohei:20181020111145j:image

中川駿『カランコエの花』 f:id:bsk00kw20-kohei:20181020111214j:image

 

この隆盛を語る上で欠かせないのが、「ガール・ミーツ・ガール」をまさに漢字に変換したような題名の『少女邂逅』。カメ止めがものすごい感染の広がりを見せるなか、同時期に公開された『少女邂逅』も新宿武蔵野館で2ヶ月のロングランヒットを記録するなど、現在も公開館数を増やしながらファンを増やしている*1

 

上記に挙げた映画群の共通点は、①学生が主人公で、②少女と少女の物語であること、また、③男性がほとんど出てこない、などが挙げられるだろうか。これらの映画以外にも、例えば平手友梨奈主演の『響』においても、男女の恋愛よりも響と祖父江凛夏という、少女たちの友情・対立・結合が物語を加速させていたし、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』は女子高生6人グループに焦点を当てた作品になっていた(こっちは未見ですが笑)。また、広義での「同性meetsもの」へと視野を広げると、ドラマ『おっさんずラブ』が爆発的な人気を見せ、異性の恋愛を描く作品が減少しているように思われる。それではいったいなぜ、こういう流れが訪れたのだろうか。

 

異性恋愛作品のバリエーション枯渇と多様性の受容

とりあえず本稿では、学生に焦点を当てた青春映画に限定して書いてるのだけど、そこに限定しなくても全体的にストレートに恋愛を描く作品というものがなくなってきている。あるとしたら少女漫画原作で、ジャニーズあたりが出演している映画しかないんじゃないか(こういうのすら一時期に比べ減ってる気がする)。

 

この前「WOWOWぷらすと」という番組で映画ジャーナリストの宇野維正さんがこの現象について興味深い話をしていた。これによると、『君の膵臓をたべたい』とか『恋は雨上がりのように』といった最近の作品が、ある男女の物語でありながら友達以上恋人未満のような関係にとどまり、恋愛を描くことに固執しない。そして、「恋愛を描いてるようで実は描いてないみたいな映画の方が当たっていて、ドンピシャで恋愛を描くものが実は全然当たってない」とのこと。*2

 

また、『テラスハウス』や『あいのり』といった恋愛リアリティーショー(リアルなのかどうかはここでは一旦置いておくけど)が流行し、“ノンフィクションの恋愛”を追うエンタメが増えているなかで、わざわざ映画やドラマにリアリティーを求めなくなっているという側面もあるかもしれない。不倫とかを描く非日常(非リアル)の恋愛作品が求められるのはそういう理由かも。

 

そうして純粋な異性恋愛を描かなくなり友情関係を描くようになると、同性2人が主人公の方が自然だし、新たなバリエーションを生めるんじゃないか、となってくるわけだ。

 

もう一つ挙げられるのは、「多様性の受容」としての同性meets映画の隆盛という視点。『ムーンライト』のアカデミー賞受賞から『君の名前で僕を呼んで』、ブラジル映画『彼の見つめる先に』のヒットなど、もはや同性恋愛と異性恋愛との“差”がなくなってきている現在において、もちろん今までは異性恋愛作品と比べて同性恋愛の方が描かれる回数が少なかったのだから、いざ同性恋愛を描くとなるとそのバリエーションには富むはずだ。加えて、異性2人が主人公だと恋愛を描く必然性がある代わりに、それが同性だと、恋愛と友情の2つから選べるという側面もあるし。

 

「ガール・ミーツ・ガール」が増えているのにはもっともっと色々な側面があると思う。例えば『少女邂逅』は枝優花監督の実体験が基になっているという。学生時代にガールミーツガールの傑作『花とアリス』を作った岩井俊二に影響を受け、また救われて、いま彼女が映画を作っているように、少女時代の自分と、自分のように苦しんでいる女の子へ向けてそういった映画を作っている監督もいる。そういったいろいろな要素が組み合わさって今年、少女と少女が出会うことになった。そしてこの流れから、若手女性監督と新進女優がまさしく“出会う”「21世紀の女の子」という映画が誕生することになる。

 

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*1:カランコエの花』も当初新宿で1週間だけの上映だったはずが渋谷で現在まで2ヶ月くらいやってたり、すごいみたい

*2:これに関連した話でいうと、今クールのドラマで間違いなく一番の話題作になるであろう『獣になれない私たち』も、恋愛を描くという側面もあるんだろうけど「ラブかもしれないストーリー」と前置いているのとか、すごく興味深い

「天才」と「凡人」とその狭間/月川翔『響 -HIBIKI–』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180929005855j:image映画『響-HIBIKI-』が意外なる傑作だった。監督は『君の膵臓をたべたい』、『となりの怪物くん』、『センセイ君主』と、漫画や小説原作を実写化してきた月川翔。どれも手放しで絶賛できる類の作品ではないのだけど、キミスイでは過去の思い出と相まってしっかり泣かされたし、センセイ君主の方は母校がロケ地ということもあってかなりドキドキさせられた。そう考えると物語の秀逸さというよりも思い出とくっついた副次的な要因が大きいな…。しかし!本作は文句なしにおもしろい!“今の自分(と社会)”に強く突き刺さる、サイコーな映画だ。

まずもって『響』というタイトルが素晴らしくないか?タイトルが主人公の名前になってる映画なんて、ディズニーアニメーション等の洋画の原題とか、黒澤明の時代劇映画でしか僕は見たことがない(勢いで書いたけどたぶん他にも結構ある)。『パディントン』みたいな勢いで『響』とタイトリングされてしまっているわけだ。原作漫画では『響~小説家になる方法~』とサブタイトルが付けられているわけだけど、映画版では『響-HIBIKI-』と“ひびき”のごり押し。要するにこのタイトルが示すのは、響という人物が凡人からはかけ離れた異質な才能を持っているということで、彼女の出現がなにか世界に多大なる影響を及ぼすということ。本作は、今をときめく欅坂46の絶対的エース・平手友梨奈が主演を務めるアイドル映画でありながら、響という天才が出現し、そのことによって世界の歪みが浮き彫りになるという、非常に社会的な作品に仕上がっている。

映画の冒頭、鮎喰響(平手友梨奈)は15歳の天才小説家として世間から注目を浴びることになる。彼女はデビュー作(新人賞への応募作)からすでに文豪の風格をまとっていて、大手出版社の新人賞はいとも簡単に受賞してしまい、さらには直木賞芥川賞にWノミネート。まごう事なき天才の出現。しかし問題となったのは、彼女が“同調的な世間”とは少しズレた感性を持っていることだった──。

この映画を見て、今年のはじめの方に読んで衝撃を受けたあるブログを思い出した。

yuiga-k.hatenablog.com

「凡人が、天才を殺すことがある理由。」という題名から興味を惹かれる記事。映画『響』を観て、「たしかにこういうことって起こってるよな」と漠然と感じた人や、一方で「よくわからなかった」という人にも、このブログを読んでいただきたい。この記事に書かれてある「天才」と「凡人」というのは、まさしく劇中での「鮎喰響」と「世間」を指し示している。「凡人」の集合体的な「世間」が、「天才」である「鮎喰響」を殺しにかかるさまは、実世界でも頻繁に起こっていて、そこに大きな問題があるということが、この記事を読めばわかるかもしれない。

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さて、わたしがこの映画で一番おもしろいと感じたのは、北川景子が演じた編集者の花井という立ち位置だ。予測不能な人生を展開する天才・鮎喰響に振り回されながら、世間との狭間で奮闘するというポジション。動き回っているもののあまり存在感のないように見える彼女だが、実はこの映画、彼女がいないと成立しないようにできているのがおもしろい。というのも、冒頭で捨てられそうになった響の原稿を掬い上げて才能を見出したのは彼女であったし、響が起こし続ける問題も彼女だからこそ対処することができた。

彼女の立ち位置は、先述のブログ記事で言うところの「秀才」のポジションであるとわたしは感じたのだけれど、この映画を見たことでその位置にいることで得られる人生体験の豊かさに気づいてしまったのである。自分が天才ではない以上、どのような手段でもいいから天才の近くで息をするということ。そのことで得られる新鮮さ、敏感さ、感動、喜び。インタビュアーやライター、編集者、マネージャーなどの職業がそれに当てはまるのかもしれないし、ただ単に芸術家の作品に接することや世界の動きに敏感であることがその道へとつながるのかもしれない。

響のまっすぐさはもちろん素晴らしいし憧れるけど、誰もがあれほどのパワーを放てるわけではない。でも、劇中で落ちぶれた天才が「世間と折り合いがついてしまった」と語るように、何もしなければ(精神的にも肉体的にも)世間の中で埋没していくだけだ。だからそうならないように、そのパワーに引き寄せられて生きたい。映画『響』は、“そこ”で生きることの楽しさを感じさせられて、無性に生命力を掻き立ててくれる作品だった。

流れついて、また流れて/濱口竜介『寝ても覚めても』

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人と人が正面衝突して、そのことによってより深く関係が再構築されていく。濱口竜介監督は、平凡からの崩壊、そして崩壊からの再生を描いてきた映画監督だ。

まだ4作品しか見れてないけれど濱口作品は、なんとなく息苦しい毎日が衝突を機にハレバレとする(しかしまた違う苦しさも残る)、そういう一連の流れを必ず描いてきている。『永遠に君を愛す』では“浮気がバレる”ということによってより強固な愛が示され、『天国はまだ遠い』では、“姉の死”や“男の嘘の演技”が妹の感情を発散させる。『ハッピーアワー』なんかは徹頭徹尾、衝突の嵐だ。なぜ、濱口監督は、ソレを描くのか。

そうですね。ハッピーアワーにも価値があるし、アンハッピーアワーにも価値がある。同質的なノリが達成されたときだけが尊いのではなく、それが壊れてバラバラになってしまったときにも実は尊いものがある。そこでは自分自身が新たに発見されているのかもしれない。だからそうやって、人が集まったり離れたりする繰り返しを見ているのが、僕は好きなんだと思います。

───『寝ても覚めても』濱口竜介監督が導く、日本映画の新時代 - インタビュー : CINRA.NETより

離れたりくっついたりする、壊れてバラバラになる。誰しもが平穏に生きていたいと願っているかもしれないなかで、濱口監督はあえてそうした苦しみに立ち向かっていく。なぜそれを描くのかと問われれば、浮き沈みと喜怒哀楽に揉まれ、崩壊と再構築を繰り返すという“慌ただしさ”が人生の豊かさを作り上げることになるから、としか答えようがないだろう。

同質性の中で真に誰とも(自分とも)交わらずに一生を終えるのか、否定と受容、対話と自問自答を繰り返して生きていくのか。少なくとも濱口監督は、後者に人生の重きを置いているのだと思う。

僕も後者の方がなんとなくおもしろそうだなと思う。とは言っても、この映画のようにそれを直で見せられてしまうと、なかなか心にズシンとくるものだ。

 

「ハッピーアワー」から「寝ても覚めても」へ

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前作の『ハッピーアワー』には、自分の“本当の感情”に気づき、そのことによって気持ち悪いくらいに生き生きとしだす人物が登場していた。離婚調停の末に妻である「純」への愛がふつふつと燃え上がってしまった男・「公平」だ。本作2度目の切り返しを見せた朝子(唐田えりか)は限りなくこの男に近い。自分勝手にもほどがあるけれど、汚い川を見て、「でもきれい」と自信をもって言えてしまう、無双感がある。

たびたび使われる「人と人の間にカメラを置く」という撮影方法は濱口監督の常套手段だろうか。他の映画ではあまり見たことがなかったような気がするのだけど、これがすごくおもしろいのだ。人と人の間にカメラを置き、一方の人物を正面から捉える。そしてその人物が話したり、表情を変えたり、動いたりする。そのことによって画面のこちら側(裏側って言ったらいいのかな)にいる人物の動作や表情を想像させる。

まるでその映画の世界の住人になったかのように感じさせる。まるでその人物たちの心のつながりに同期したかのような感覚を覚えさせる。『ハッピーアワー』ではこの手法によって正中線という名の心のつながりを見せていた。決まって誰かと誰かが“通じているとき”に使われていると僕は思った。

本作では結構雑多に使われているような気もしたけど、「非常階段から下にいる朝子を見つける画」や「土下座しているのであろう串橋を見下ろしているマヤ」などつながりが垣間見える場面で使われていたような気がしている*1

そのスペシャルなカメラ位置での印象に残っている場面を2つ挙げて、この映画のレビューとしたい。ラスト付近、朝子が仙台の海という他者と対面するシーンと2人が並んでこちら側の川を望んでいるラストシーンだ。

まず1つ目から。この映画、なんとなく移動経路が重要な意味を示しているように思う。「大阪→東京→仙台→東京→大阪→東京→仙台(の手前)→(北海道×)→大阪」朝子の移動経路。主題歌の「River」を含め「川」が印象的な映画ですが、高速道路に乗って車が移動するあの空からの映像が、なんとなく川を流れているように僕には見えた。同じ道路を写し、行ったり来たりを繰り返す。

そこで朝子がたどり着いたのは、仙台(正確には仙台の手前)の海だった。麦に別れを告げた後、朝子は仙台の海と対面する。さんざめく波音に臆さない彼女のあの表情は、ラストシーンに次いで美しいショットだ。

あたしはまるでいま、夢を見ているような気がする。ちがう、いままでのほうが全部長い夢だったような気がする。すごくしあわせな夢だった。成長したような気でいた。でも目が覚めて、わたし何も変わってなかった

───「ユリイカ2018年9月号」より引用

こう語った直後の2度目の切り返し。

仙台の海は、否応なく「現実」を突きつけてきた。震災を含めたこの7年の出来事と亮平への愛、麦の底知れなさ、あるいは岡崎の病気が、すべて夢ではなく現実であるということを浮かび上がらせる。そしてそのことによって、北海道という終点へと身を運ぶのではなく、川を流れ続けることを彼女は選択することになる*2

そこからの彼女は強い。目的が明確だからだ。この気づきは、おそらく裏切りという崩壊をもってしないともたらされないものだったのだろうと思う。そうして亮平の元へと戻り、2人で川を眺める。

 

亮平:汚ったねぇ川だな

朝子:でも、きれい

 

亮平にとっては、氾濫して泥にまみれた「汚い川」にしか見えていないかもしれない。しかし同じ川をみて朝子は「きれい」と言ってみせる。そして亮平は朝子を疑問の目で一瞥し、しかし反論はしない。そのまま2人が1つになったかのようにカメラが彼らを映し、暗転する。

今までは1人の人と人の間(あるいは海のような大きな他者との間)に置かれていたカメラが、“2人と川”の間にカメラが位置するという特異なラストシーン。あの場面には、すべてを受け入れてその先に進もうとする、2人が1人になり得た姿が存在していたように僕には見えた。それがすごく美しく、晴れ晴れしく、それでいて汚くも見えたのだけれど、とにもかくにも、豊かな感情を得ることができる気持ちのいい終わり方だった。

 

 

東出さんがヤヴァイとか唐田えりかさんが素朴でかわいいけど目線がまっすぐ過ぎて怖いとか、『パンとバスと2度目のハツコイ』と同じくヒロインの昔の親友っていうポジションでコメディエンヌっぷりを存分に発揮する伊藤沙莉の素晴らしさとかもっと色々書きたいけど長すぎるんでこの辺で。すごくおもしろかった。濱口監督の映画のおかげで人生の楽しみが増えた。

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*1:マヤと亮平が初めて出会った日の別れ際、バイバイをしているときに信号が点滅しだして慌てて振り返るっていう場面がたまらなく好きだ。信号点滅してるよーって指で示したりしてるんだろうなーってのが亮平の表情から透けて見える

*2:前半のバイク事故からしてふたりは一緒に川を流れることに難しさを抱えている

背中に感じたぬくもりと冷たさと/中川駿『カランコエの花』

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(短文レビュー)

おもしろい。よくできてる。39分という上映時間からは想像できないほどに、鑑賞後は余韻で胸がいっぱいになる。

ある一つのクラスで唐突に行われた「LGBTについての授業」。その授業を契機に、「俺らのクラスだけこの授業してるってことは、もしかしてこの中にいるんじゃね?」とからかい男子の詮索が始まり、クラスにも波紋が広がっていく。

高校の、ある夏の日の、月曜~金曜日までの5日間を切りとり生徒たちの様子を半ば群像劇のような形で描き出した作品。「クラス内のLGBT探し」という“事件”が物語をドライブさせていく質感や*1吹奏楽の演奏、更衣室でのふたりの女子など、どことなく『桐島、部活やめるってよ』を彷彿とさせる、社会的でありながらエンタメ性も兼ね備えた内容に仕上がっている。

こうゆう作品の場合、物語が進むにつれ、どうやって物語を締めるのだろうという期待が高まっていくものだ。その大きな問題に「逃げずに」立ち向かうのか、そこが気になるところ。本作の結末は観るもの各々の感想に委ねたいのだけど、個人的には、逃げているように見えて実は逃げていない、あの傍観者を真正面から描こうとしている作品だと感じた。

そして、ミニシアター邦画界でひとつのジャンルを確立しつつある「ガール・ミーツ・ガール」が本作でも重要な骨組みになっている。男子はからかうことしかできず(彼の存在は余韻の塊。素晴らしい)、女子は愛ある無下な肯定で相手を傷つけてしまう(保健の先生の思惑も悪い方向へ。難しい…)。「自転車に二人乗り」という物理的な距離感と精神的な距離感が反比例していく様子がなんとももの悲しい。カランコエ花言葉には劇中には出てこない「おおらかな心」という意味も込められている。「私たちは違うようでいてみんな同じなんだ」と再確認するために『放課後ソーダ日和』をみましょう。

最後にネタバレで少し。「桜がつきちゃんに恋してること」と「桜は教室にいない」という事実だけが残るラスト。あれがなんとも…胸がいっぱいになる…。この「あとは各々で考えてね」っていう終わり方も、この映画は随所で伏線が張ってあるからもしかしたらからかい男子にも深い事情があったのかもしれないと想像することができるし、更衣室での彼女の不自然な動きもいろいろな意味を持ちうる。この最後に残る“事実”の強度が、この映画の強さだと思う。


映画『カランコエの花』予告編

 

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*1:誤解が無いように言うと、もちろんこの映画は、LGBT探しをし始める生徒たちを肯定的に描いてはいない。それでもミステリー的な興味を少しそそられてしまう観客(僕だけかも)に自戒させるつくりになっている。

平成最後の夏、あるいは青春時代の終わりに/枝優花×羊文学『放課後ソーダ日和』

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映画『少女邂逅』のアナザーストーリーとしてYouTubeで公開されているドラマ『放課後ソーダ日和』が予想以上にグサグサと心に刺さりまくっている。映画が学生時代のリアルな闇の部分を描いていた作品であったから、光に焦点を当てたこのドラマのキラキラした青春模様にドキドキしてしまう。結局同じことを伝えようとしている2作品ではあるのだけれど、この光と闇の二面性が物語を豊かにしている。枝優花監督はやっぱりおもしろいぞ。

一話一話がほんとうに素晴らしくて書きたいことが多い作品だ。でももう6話まで公開されてしまっているので、かいつまんで、簡潔に…。

第1話のサブタイトルは「特別な時間のはじまり」。冒頭ナレーションの「ほんとうにこれでいいの?」という問いかけから物語に引き込まれてしまうのだけれど、この作品は明確にあのころの「特別な時間」について描こうとしている。今も辛いときにはそっと背中を押して寄り添っていてくれるあの時間について。

映画とドラマをつなぐ「第1話」では特に、就職活動中のミユリが本作の主人公である3人を親のような表情で見つめるカットがグッときた。あの時間を私たちは大切にできていたのかなと自問自答し、新しい世界へと歩みを進めること。枝監督も主題歌を担当している羊文学も(そして就活中のミユリも)、僕の同世代なのでちょっと共感できるのだけど、モラトリアムな私たちはそうゆうことを回顧したくなる年ごろなのだ。

青春時代が終わればわたしたち、生きてる意味がないわ

という書き出しが衝撃的な主題歌『ドラマ』も、エンディングの『天気予報』では

僕らが憧れた未来予想のその先は ドキドキするような未来を運ぶかい?

となる。『天気予報』というタイトルからも想像できるように、目線を未来へと移し変えている。「あのころ」の無限の可能性を携えて未来へと歩みを進めよう。僕にはそんなメッセージを感じ取れる作品だった。

ここまでで一番印象に残っているのは、第4話と第5話の「夏、来たる 前編/後編」だ。サナ(森田想)とモモ(田中芽衣)がクリームソーダのアイスとメロンソーダのごとく、混ざりあい、同期し、互いを認め合うお話。なんとも瑞々しく、夏にピッタリの爽やかな一編だ。みんな「違う」ようでいて実は「同じ」なんだ、というのが『少女邂逅』のメインテーマであったと思うのだけれど、本作ではよりわかりやすく、また可視的にその模様が描かれていておもしろい。とりわけあの「ペアソーダ」というクリームソーダを使った演出の巧さよ。

イチゴソーダとメロンソーダが同じ器の中に流し込まれていて、上にはクリームとアイスが乗っている魔法的なこのお飲み物。その飲み物の究極の飲み方をムウ子が発見してしまうのだ。

 (メロンソーダの上に乗っていたアイスをイチゴソーダのほうに持ってきてかき混ぜ、ひと口ごくん)これ、アイスと混ぜるとイチゴミルクになりますね、!

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これぞ映像演出というものだろう。分け隔てられたアイスとイチゴソーダがミックスされることによって生み出されるイチゴミルク。そのままサナとモモの同質性を暗示しているのだ。これを発見するのがムウ子であるというのも素晴らしすぎて憎いほど。第5話ではきっちりと言語化して「私たちは違うようでいて同じなのかもしれない」と語っているのだけれど、そんな言葉必要ないくらいに心が躍る場面でした。

青春時代は終わる。おまけに平成というひとつの時代も終わる。終わりばかりに目がいってしまう不安定な世の中だ。ただいつかの自分が後悔しないように、またいつかの自分を支えてあげられる経験を得るために「今」を大事にしよう、とこの作品は教えてくれる。「天気予報」を確認して、明日への道すじを描きたい。


放課後ソーダ日和【第1話:特別な時間のはじまり】映画『少女邂逅』のアナザーストーリー 森田想×田中芽衣×蒼波純/ 羊文学【フルHD推奨】

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