縞馬は青い

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“ガール・ミーツ・ガール映画”が救う世界──『少女邂逅』から『カランコエの花』、そして『21世紀の女の子』へ

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サムネイルはロロという劇団の演劇で少女2人の物語を描いた作品。

映画以外にもガールミーツガールが暑かった今年の夏

 

今年の日本映画界、すごくないっすか? 2016年の勢いをもう一度取り戻しているように見えるのだけど、あの時とも少し違うなっと思うのは、いわゆる「ミニシアター」で上映されるようなローバジェットな映画がとんでもない動員数を示していること。『カメラを止めるな!』はもはや言うまでもない盛り上がり、『寝ても覚めても』は『万引き家族』とともにカンヌに正式ノミネートされ、公開後も同日公開の『きみの鳥はうたえる』とともに邦画のニューウェーブとして注目を集めた。今現在は『若おかみは小学生!』がSNS等の口コミでジワジワと広がりを見せている。『カメラを止めるな!』から生まれた“ポンデミック”という言葉に象徴されるように、SNSの力もあって“いい映画”が毛細血管の奥の奥まで流れていく世界になった。

 

そんななか本稿で取り上げたいのは、2018年の邦画界ーーとりわけミニシアター邦画界を語る上で欠かせない、「ガール・ミーツ・ガール」というジャンルをつくりあげている映画の隆盛についてだ。

 

「ガール・ミーツ・ガール」って?

少年が少女に出会うことによって物語がドライブしていく「ボーイ・ミーツ・ガール」という物語の類型はいわば映画の定型である。それはときに恋愛に発展することもあるし、ジブリ映画なんかでは友情にとどまることも多い。それが今、少女と少女が出会う「ガール・ミーツ・ガール」の物語へと幅の広がりを見せているのだ。まずは今年公開されたものをザッと挙げてみよう(漏れもあると思います)。

 

山田尚子リズと青い鳥f:id:bsk00kw20-kohei:20181020111046j:image

枝優花少女邂逅f:id:bsk00kw20-kohei:20181020111109j:image

湯浅弘章志乃ちゃんは自分の名前が言えないf:id:bsk00kw20-kohei:20181020111145j:image

中川駿『カランコエの花』 f:id:bsk00kw20-kohei:20181020111214j:image

 

この隆盛を語る上で欠かせないのが、「ガール・ミーツ・ガール」をまさに漢字に変換したような題名の『少女邂逅』。カメ止めがものすごい感染の広がりを見せるなか、同時期に公開された『少女邂逅』も新宿武蔵野館で2ヶ月のロングランヒットを記録するなど、現在も公開館数を増やしながらファンを増やしている*1

 

上記に挙げた映画群の共通点は、①学生が主人公で、②少女と少女の物語であること、また、③男性がほとんど出てこない、などが挙げられるだろうか。これらの映画以外にも、例えば平手友梨奈主演の『響』においても、男女の恋愛よりも響と祖父江凛夏という、少女たちの友情・対立・結合が物語を加速させていたし、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』は女子高生6人グループに焦点を当てた作品になっていた(こっちは未見ですが笑)。また、広義での「同性meetsもの」へと視野を広げると、ドラマ『おっさんずラブ』が爆発的な人気を見せ、異性の恋愛を描く作品が減少しているように思われる。それではいったいなぜ、こういう流れが訪れたのだろうか。

 

異性恋愛作品のバリエーション枯渇と多様性の受容

とりあえず本稿では、学生に焦点を当てた青春映画に限定して書いてるのだけど、そこに限定しなくても全体的にストレートに恋愛を描く作品というものがなくなってきている。あるとしたら少女漫画原作で、ジャニーズあたりが出演している映画しかないんじゃないか(こういうのすら一時期に比べ減ってる気がする)。

 

この前「WOWOWぷらすと」という番組で映画ジャーナリストの宇野維正さんがこの現象について興味深い話をしていた。これによると、『君の膵臓をたべたい』とか『恋は雨上がりのように』といった最近の作品が、ある男女の物語でありながら友達以上恋人未満のような関係にとどまり、恋愛を描くことに固執しない。そして、「恋愛を描いてるようで実は描いてないみたいな映画の方が当たっていて、ドンピシャで恋愛を描くものが実は全然当たってない」とのこと。*2

 

また、『テラスハウス』や『あいのり』といった恋愛リアリティーショー(リアルなのかどうかはここでは一旦置いておくけど)が流行し、“ノンフィクションの恋愛”を追うエンタメが増えているなかで、わざわざ映画やドラマにリアリティーを求めなくなっているという側面もあるかもしれない。不倫とかを描く非日常(非リアル)の恋愛作品が求められるのはそういう理由かも。

 

そうして純粋な異性恋愛を描かなくなり友情関係を描くようになると、同性2人が主人公の方が自然だし、新たなバリエーションを生めるんじゃないか、となってくるわけだ。

 

もう一つ挙げられるのは、「多様性の受容」としての同性meets映画の隆盛という視点。『ムーンライト』のアカデミー賞受賞から『君の名前で僕を呼んで』、ブラジル映画『彼の見つめる先に』のヒットなど、もはや同性恋愛と異性恋愛との“差”がなくなってきている現在において、もちろん今までは異性恋愛作品と比べて同性恋愛の方が描かれる回数が少なかったのだから、いざ同性恋愛を描くとなるとそのバリエーションには富むはずだ。加えて、異性2人が主人公だと恋愛を描く必然性がある代わりに、それが同性だと、恋愛と友情の2つから選べるという側面もあるし。

 

「ガール・ミーツ・ガール」が増えているのにはもっともっと色々な側面があると思う。例えば『少女邂逅』は枝優花監督の実体験が基になっているという。学生時代にガールミーツガールの傑作『花とアリス』を作った岩井俊二に影響を受け、また救われて、いま彼女が映画を作っているように、少女時代の自分と、自分のように苦しんでいる女の子へ向けてそういった映画を作っている監督もいる。そういったいろいろな要素が組み合わさって今年、少女と少女が出会うことになった。そしてこの流れから、若手女性監督と新進女優がまさしく“出会う”「21世紀の女の子」という映画が誕生することになる。

 

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*1:カランコエの花』も当初新宿で1週間だけの上映だったはずが渋谷で現在まで2ヶ月くらいやってたり、すごいみたい

*2:これに関連した話でいうと、今クールのドラマで間違いなく一番の話題作になるであろう『獣になれない私たち』も、恋愛を描くという側面もあるんだろうけど「ラブかもしれないストーリー」と前置いているのとか、すごく興味深い

「天才」と「凡人」とその狭間/月川翔『響 -HIBIKI–』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180929005855j:image映画『響-HIBIKI-』が意外なる傑作だった。監督は『君の膵臓をたべたい』、『となりの怪物くん』、『センセイ君主』と、漫画や小説原作を実写化してきた月川翔。どれも手放しで絶賛できる類の作品ではないのだけど、キミスイでは過去の思い出と相まってしっかり泣かされたし、センセイ君主の方は母校がロケ地ということもあってかなりドキドキさせられた。そう考えると物語の秀逸さというよりも思い出とくっついた副次的な要因が大きいな…。しかし!本作は文句なしにおもしろい!“今の自分(と社会)”に強く突き刺さる、サイコーな映画だ。

まずもって『響』というタイトルが素晴らしくないか?タイトルが主人公の名前になってる映画なんて、ディズニーアニメーション等の洋画の原題とか、黒澤明の時代劇映画でしか僕は見たことがない(勢いで書いたけどたぶん他にも結構ある)。『パディントン』みたいな勢いで『響』とタイトリングされてしまっているわけだ。原作漫画では『響~小説家になる方法~』とサブタイトルが付けられているわけだけど、映画版では『響-HIBIKI-』と“ひびき”のごり押し。要するにこのタイトルが示すのは、響という人物が凡人からはかけ離れた異質な才能を持っているということで、彼女の出現がなにか世界に多大なる影響を及ぼすということ。本作は、今をときめく欅坂46の絶対的エース・平手友梨奈が主演を務めるアイドル映画でありながら、響という天才が出現し、そのことによって世界の歪みが浮き彫りになるという、非常に社会的な作品に仕上がっている。

映画の冒頭、鮎喰響(平手友梨奈)は15歳の天才小説家として世間から注目を浴びることになる。彼女はデビュー作(新人賞への応募作)からすでに文豪の風格をまとっていて、大手出版社の新人賞はいとも簡単に受賞してしまい、さらには直木賞芥川賞にWノミネート。まごう事なき天才の出現。しかし問題となったのは、彼女が“同調的な世間”とは少しズレた感性を持っていることだった──。

この映画を見て、今年のはじめの方に読んで衝撃を受けたあるブログを思い出した。

yuiga-k.hatenablog.com

「凡人が、天才を殺すことがある理由。」という題名から興味を惹かれる記事。映画『響』を観て、「たしかにこういうことって起こってるよな」と漠然と感じた人や、一方で「よくわからなかった」という人にも、このブログを読んでいただきたい。この記事に書かれてある「天才」と「凡人」というのは、まさしく劇中での「鮎喰響」と「世間」を指し示している。「凡人」の集合体的な「世間」が、「天才」である「鮎喰響」を殺しにかかるさまは、実世界でも頻繁に起こっていて、そこに大きな問題があるということが、この記事を読めばわかるかもしれない。

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さて、わたしがこの映画で一番おもしろいと感じたのは、北川景子が演じた編集者の花井という立ち位置だ。予測不能な人生を展開する天才・鮎喰響に振り回されながら、世間との狭間で奮闘するというポジション。動き回っているもののあまり存在感のないように見える彼女だが、実はこの映画、彼女がいないと成立しないようにできているのがおもしろい。というのも、冒頭で捨てられそうになった響の原稿を掬い上げて才能を見出したのは彼女であったし、響が起こし続ける問題も彼女だからこそ対処することができた。

彼女の立ち位置は、先述のブログ記事で言うところの「秀才」のポジションであるとわたしは感じたのだけれど、この映画を見たことでその位置にいることで得られる人生体験の豊かさに気づいてしまったのである。自分が天才ではない以上、どのような手段でもいいから天才の近くで息をするということ。そのことで得られる新鮮さ、敏感さ、感動、喜び。インタビュアーやライター、編集者、マネージャーなどの職業がそれに当てはまるのかもしれないし、ただ単に芸術家の作品に接することや世界の動きに敏感であることがその道へとつながるのかもしれない。

響のまっすぐさはもちろん素晴らしいし憧れるけど、誰もがあれほどのパワーを放てるわけではない。でも、劇中で落ちぶれた天才が「世間と折り合いがついてしまった」と語るように、何もしなければ(精神的にも肉体的にも)世間の中で埋没していくだけだ。だからそうならないように、そのパワーに引き寄せられて生きたい。映画『響』は、“そこ”で生きることの楽しさを感じさせられて、無性に生命力を掻き立ててくれる作品だった。

流れついて、また流れて/濱口竜介『寝ても覚めても』

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人と人が正面衝突して、そのことによってより深く関係が再構築されていく。濱口竜介監督は、平凡からの崩壊、そして崩壊からの再生を描いてきた映画監督だ。

まだ4作品しか見れてないけれど濱口作品は、なんとなく息苦しい毎日が衝突を機にハレバレとする(しかしまた違う苦しさも残る)、そういう一連の流れを必ず描いてきている。『永遠に君を愛す』では“浮気がバレる”ということによってより強固な愛が示され、『天国はまだ遠い』では、“姉の死”や“男の嘘の演技”が妹の感情を発散させる。『ハッピーアワー』なんかは徹頭徹尾、衝突の嵐だ。なぜ、濱口監督は、ソレを描くのか。

そうですね。ハッピーアワーにも価値があるし、アンハッピーアワーにも価値がある。同質的なノリが達成されたときだけが尊いのではなく、それが壊れてバラバラになってしまったときにも実は尊いものがある。そこでは自分自身が新たに発見されているのかもしれない。だからそうやって、人が集まったり離れたりする繰り返しを見ているのが、僕は好きなんだと思います。

───『寝ても覚めても』濱口竜介監督が導く、日本映画の新時代 - インタビュー : CINRA.NETより

離れたりくっついたりする、壊れてバラバラになる。誰しもが平穏に生きていたいと願っているかもしれないなかで、濱口監督はあえてそうした苦しみに立ち向かっていく。なぜそれを描くのかと問われれば、浮き沈みと喜怒哀楽に揉まれ、崩壊と再構築を繰り返すという“慌ただしさ”が人生の豊かさを作り上げることになるから、としか答えようがないだろう。

同質性の中で真に誰とも(自分とも)交わらずに一生を終えるのか、否定と受容、対話と自問自答を繰り返して生きていくのか。少なくとも濱口監督は、後者に人生の重きを置いているのだと思う。

僕も後者の方がなんとなくおもしろそうだなと思う。とは言っても、この映画のようにそれを直で見せられてしまうと、なかなか心にズシンとくるものだ。

 

「ハッピーアワー」から「寝ても覚めても」へ

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前作の『ハッピーアワー』には、自分の“本当の感情”に気づき、そのことによって気持ち悪いくらいに生き生きとしだす人物が登場していた。離婚調停の末に妻である「純」への愛がふつふつと燃え上がってしまった男・「公平」だ。本作2度目の切り返しを見せた朝子(唐田えりか)は限りなくこの男に近い。自分勝手にもほどがあるけれど、汚い川を見て、「でもきれい」と自信をもって言えてしまう、無双感がある。

たびたび使われる「人と人の間にカメラを置く」という撮影方法は濱口監督の常套手段だろうか。他の映画ではあまり見たことがなかったような気がするのだけど、これがすごくおもしろいのだ。人と人の間にカメラを置き、一方の人物を正面から捉える。そしてその人物が話したり、表情を変えたり、動いたりする。そのことによって画面のこちら側(裏側って言ったらいいのかな)にいる人物の動作や表情を想像させる。

まるでその映画の世界の住人になったかのように感じさせる。まるでその人物たちの心のつながりに同期したかのような感覚を覚えさせる。『ハッピーアワー』ではこの手法によって正中線という名の心のつながりを見せていた。決まって誰かと誰かが“通じているとき”に使われていると僕は思った。

本作では結構雑多に使われているような気もしたけど、「非常階段から下にいる朝子を見つける画」や「土下座しているのであろう串橋を見下ろしているマヤ」などつながりが垣間見える場面で使われていたような気がしている*1

そのスペシャルなカメラ位置での印象に残っている場面を2つ挙げて、この映画のレビューとしたい。ラスト付近、朝子が仙台の海という他者と対面するシーンと2人が並んでこちら側の川を望んでいるラストシーンだ。

まず1つ目から。この映画、なんとなく移動経路が重要な意味を示しているように思う。「大阪→東京→仙台→東京→大阪→東京→仙台(の手前)→(北海道×)→大阪」朝子の移動経路。主題歌の「River」を含め「川」が印象的な映画ですが、高速道路に乗って車が移動するあの空からの映像が、なんとなく川を流れているように僕には見えた。同じ道路を写し、行ったり来たりを繰り返す。

そこで朝子がたどり着いたのは、仙台(正確には仙台の手前)の海だった。麦に別れを告げた後、朝子は仙台の海と対面する。さんざめく波音に臆さない彼女のあの表情は、ラストシーンに次いで美しいショットだ。

あたしはまるでいま、夢を見ているような気がする。ちがう、いままでのほうが全部長い夢だったような気がする。すごくしあわせな夢だった。成長したような気でいた。でも目が覚めて、わたし何も変わってなかった

───「ユリイカ2018年9月号」より引用

こう語った直後の2度目の切り返し。

仙台の海は、否応なく「現実」を突きつけてきた。震災を含めたこの7年の出来事と亮平への愛、麦の底知れなさ、あるいは岡崎の病気が、すべて夢ではなく現実であるということを浮かび上がらせる。そしてそのことによって、北海道という終点へと身を運ぶのではなく、川を流れ続けることを彼女は選択することになる*2

そこからの彼女は強い。目的が明確だからだ。この気づきは、おそらく裏切りという崩壊をもってしないともたらされないものだったのだろうと思う。そうして亮平の元へと戻り、2人で川を眺める。

 

亮平:汚ったねぇ川だな

朝子:でも、きれい

 

亮平にとっては、氾濫して泥にまみれた「汚い川」にしか見えていないかもしれない。しかし同じ川をみて朝子は「きれい」と言ってみせる。そして亮平は朝子を疑問の目で一瞥し、しかし反論はしない。そのまま2人が1つになったかのようにカメラが彼らを映し、暗転する。

今までは1人の人と人の間(あるいは海のような大きな他者との間)に置かれていたカメラが、“2人と川”の間にカメラが位置するという特異なラストシーン。あの場面には、すべてを受け入れてその先に進もうとする、2人が1人になり得た姿が存在していたように僕には見えた。それがすごく美しく、晴れ晴れしく、それでいて汚くも見えたのだけれど、とにもかくにも、豊かな感情を得ることができる気持ちのいい終わり方だった。

 

 

東出さんがヤヴァイとか唐田えりかさんが素朴でかわいいけど目線がまっすぐ過ぎて怖いとか、『パンとバスと2度目のハツコイ』と同じくヒロインの昔の親友っていうポジションでコメディエンヌっぷりを存分に発揮する伊藤沙莉の素晴らしさとかもっと色々書きたいけど長すぎるんでこの辺で。すごくおもしろかった。濱口監督の映画のおかげで人生の楽しみが増えた。

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*1:マヤと亮平が初めて出会った日の別れ際、バイバイをしているときに信号が点滅しだして慌てて振り返るっていう場面がたまらなく好きだ。信号点滅してるよーって指で示したりしてるんだろうなーってのが亮平の表情から透けて見える

*2:前半のバイク事故からしてふたりは一緒に川を流れることに難しさを抱えている

背中に感じたぬくもりと冷たさと/中川駿『カランコエの花』

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(短文レビュー)

おもしろい。よくできてる。39分という上映時間からは想像できないほどに、鑑賞後は余韻で胸がいっぱいになる。

ある一つのクラスで唐突に行われた「LGBTについての授業」。その授業を契機に、「俺らのクラスだけこの授業してるってことは、もしかしてこの中にいるんじゃね?」とからかい男子の詮索が始まり、クラスにも波紋が広がっていく。

高校の、ある夏の日の、月曜~金曜日までの5日間を切りとり生徒たちの様子を半ば群像劇のような形で描き出した作品。「クラス内のLGBT探し」という“事件”が物語をドライブさせていく質感や*1吹奏楽の演奏、更衣室でのふたりの女子など、どことなく『桐島、部活やめるってよ』を彷彿とさせる、社会的でありながらエンタメ性も兼ね備えた内容に仕上がっている。

こうゆう作品の場合、物語が進むにつれ、どうやって物語を締めるのだろうという期待が高まっていくものだ。その大きな問題に「逃げずに」立ち向かうのか、そこが気になるところ。本作の結末は観るもの各々の感想に委ねたいのだけど、個人的には、逃げているように見えて実は逃げていない、あの傍観者を真正面から描こうとしている作品だと感じた。

そして、ミニシアター邦画界でひとつのジャンルを確立しつつある「ガール・ミーツ・ガール」が本作でも重要な骨組みになっている。男子はからかうことしかできず(彼の存在は余韻の塊。素晴らしい)、女子は愛ある無下な肯定で相手を傷つけてしまう(保健の先生の思惑も悪い方向へ。難しい…)。「自転車に二人乗り」という物理的な距離感と精神的な距離感が反比例していく様子がなんとももの悲しい。カランコエ花言葉には劇中には出てこない「おおらかな心」という意味も込められている。「私たちは違うようでいてみんな同じなんだ」と再確認するために『放課後ソーダ日和』をみましょう。

最後にネタバレで少し。「桜がつきちゃんに恋してること」と「桜は教室にいない」という事実だけが残るラスト。あれがなんとも…胸がいっぱいになる…。この「あとは各々で考えてね」っていう終わり方も、この映画は随所で伏線が張ってあるからもしかしたらからかい男子にも深い事情があったのかもしれないと想像することができるし、更衣室での彼女の不自然な動きもいろいろな意味を持ちうる。この最後に残る“事実”の強度が、この映画の強さだと思う。


映画『カランコエの花』予告編

 

bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

*1:誤解が無いように言うと、もちろんこの映画は、LGBT探しをし始める生徒たちを肯定的に描いてはいない。それでもミステリー的な興味を少しそそられてしまう観客(僕だけかも)に自戒させるつくりになっている。

平成最後の夏、あるいは青春時代の終わりに/枝優花×羊文学『放課後ソーダ日和』

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bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

映画『少女邂逅』のアナザーストーリーとしてYouTubeで公開されているドラマ『放課後ソーダ日和』が予想以上にグサグサと心に刺さりまくっている。映画が学生時代のリアルな闇の部分を描いていた作品であったから、光に焦点を当てたこのドラマのキラキラした青春模様にドキドキしてしまう。結局同じことを伝えようとしている2作品ではあるのだけれど、この光と闇の二面性が物語を豊かにしている。枝優花監督はやっぱりおもしろいぞ。

一話一話がほんとうに素晴らしくて書きたいことが多い作品だ。でももう6話まで公開されてしまっているので、かいつまんで、簡潔に…。

第1話のサブタイトルは「特別な時間のはじまり」。冒頭ナレーションの「ほんとうにこれでいいの?」という問いかけから物語に引き込まれてしまうのだけれど、この作品は明確にあのころの「特別な時間」について描こうとしている。今も辛いときにはそっと背中を押して寄り添っていてくれるあの時間について。

映画とドラマをつなぐ「第1話」では特に、就職活動中のミユリが本作の主人公である3人を親のような表情で見つめるカットがグッときた。あの時間を私たちは大切にできていたのかなと自問自答し、新しい世界へと歩みを進めること。枝監督も主題歌を担当している羊文学も(そして就活中のミユリも)、僕の同世代なのでちょっと共感できるのだけど、モラトリアムな私たちはそうゆうことを回顧したくなる年ごろなのだ。

青春時代が終わればわたしたち、生きてる意味がないわ

という書き出しが衝撃的な主題歌『ドラマ』も、エンディングの『天気予報』では

僕らが憧れた未来予想のその先は ドキドキするような未来を運ぶかい?

となる。『天気予報』というタイトルからも想像できるように、目線を未来へと移し変えている。「あのころ」の無限の可能性を携えて未来へと歩みを進めよう。僕にはそんなメッセージを感じ取れる作品だった。

ここまでで一番印象に残っているのは、第4話と第5話の「夏、来たる 前編/後編」だ。サナ(森田想)とモモ(田中芽衣)がクリームソーダのアイスとメロンソーダのごとく、混ざりあい、同期し、互いを認め合うお話。なんとも瑞々しく、夏にピッタリの爽やかな一編だ。みんな「違う」ようでいて実は「同じ」なんだ、というのが『少女邂逅』のメインテーマであったと思うのだけれど、本作ではよりわかりやすく、また可視的にその模様が描かれていておもしろい。とりわけあの「ペアソーダ」というクリームソーダを使った演出の巧さよ。

イチゴソーダとメロンソーダが同じ器の中に流し込まれていて、上にはクリームとアイスが乗っている魔法的なこのお飲み物。その飲み物の究極の飲み方をムウ子が発見してしまうのだ。

 (メロンソーダの上に乗っていたアイスをイチゴソーダのほうに持ってきてかき混ぜ、ひと口ごくん)これ、アイスと混ぜるとイチゴミルクになりますね、!

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これぞ映像演出というものだろう。分け隔てられたアイスとイチゴソーダがミックスされることによって生み出されるイチゴミルク。そのままサナとモモの同質性を暗示しているのだ。これを発見するのがムウ子であるというのも素晴らしすぎて憎いほど。第5話ではきっちりと言語化して「私たちは違うようでいて同じなのかもしれない」と語っているのだけれど、そんな言葉必要ないくらいに心が躍る場面でした。

青春時代は終わる。おまけに平成というひとつの時代も終わる。終わりばかりに目がいってしまう不安定な世の中だ。ただいつかの自分が後悔しないように、またいつかの自分を支えてあげられる経験を得るために「今」を大事にしよう、とこの作品は教えてくれる。「天気予報」を確認して、明日への道すじを描きたい。


放課後ソーダ日和【第1話:特別な時間のはじまり】映画『少女邂逅』のアナザーストーリー 森田想×田中芽衣×蒼波純/ 羊文学【フルHD推奨】

天気予報

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ナカゴー『まだ出会っていないだけ』@下北沢駅前劇場

f:id:bsk00kw20-kohei:20180804195515j:imageもうたまらなく面白い。東京に来ていなかったらこういう作品にも出会えていなかったと思うとそれだけでぶるぶる震えてしまう。ナカゴーを見れる環境にいる人は、すぐさま見に行ってほしい。今話題の『カメラを止めるな!』なんて目じゃないほど、笑いと感動と情熱に満ち溢れた作品だった。

東京に来て増えた趣味のひとつ、演劇。中でも小演劇と呼ぶのだろうか。この日ナカゴーを見た前日にも玉田企画という劇団の演劇を見ていたのだけど、これもずるずると引き込まれるおもしろさだった。リアリティ再現度が半端ないこの作品では、“日常の中のささいなモヤモヤ”を役者の「自然な」演技で魅せている。ナカゴーの演劇スタイルはこれと正反対といってもいいかもしれない。昭和感を漂わせた舞台上で役者たちはとことんオーバーアクションを貫き、こんなセリフ日常で言う人いないだろという奇天烈な表現が飛び交う。これがなぜ面白いかというと、単純に演者たちの演技がうますぎるからだ。あとはワードセンスと細かい動きの描写のうまさ。とにかくうまい。とにかく面白い。笑わない時間なんて5分と続かない、それでいてじ~んとくる場面もある恐ろしい作品である。

今年のGW付近に上演されていたナカゴー特別公演『まだ気づいていないだけ』をベースにさらなる“技巧の深化”と“物語性の進化”を携えて上演されたナカゴー本公演『まだ出会っていないだけ』@下北沢駅前劇場。人間の不器用さと可笑しさ、愛おしさをオーバーアクション、ネタバラシ、バッドエンドという3つの技で描ききった作品だ。

物語がはじまるとひとりの女性が現れる。どうやらその女性は主人公の親友であり、また予知能力者であるらしい。そんな彼女は、あろうことか、これからこの舞台で起こることの“結末”を語ってみせてしまう。「喧嘩をして長年疎遠になっていた姉妹が久しぶりに顔を合わせて仲直りに試みるのだけれど、結局仲たがいしたまま終わってしまう作品」であると…。

ナカゴーの演劇をまだ見ていない人にこの最大の魅力を教えてしまっていいものか非常に悩むところだが、ネタバレを気にする人はこの段階で意を決して見に行ってくれていると信じたい。一言でいうと「“ネタバラシ”を基盤とした究極の予定調和芸」これがナカゴーの特徴であり、魅力なのだ。“これから何が起こるのか”をあらかじめ観客に伝えておいて、その通りのことを演じるということ。これは上記の「予知能力者」という形や「内緒にしてと言われたことをベラベラと喋ってしまう男」を媒介にして伝えられていき、半ば強引に役者の演技と脚本の巧さで魅せ切っていく。

予知能力者の出現やネタバラシを含め、「見える/見えない」、「知っている/知らない」という思考の反転が与える物語のドライブ感には素直に驚いてしまった。それは例えば野上篤史さん演じる“黒子”の役。私たち観客には見えていて、物語の中の人物たちには見えていない(という設定)。天国へと旅たつ場面の衝撃ったら。素晴らしいメタ演出だった。他にも、幽霊の出現や未来予知、もちろんネタバラシという最大のシステムも含め、わたしは知っているのにあなたは知らない、わたしには見えているのにあなたには見えていないという「認知の差」が生み出すコメディが劇場を肩で笑わしていく。

しかしこの作品で最も特筆すべきなのは「ごっこ遊び」のことだろう。姉妹が、喧嘩をしたあと仲を取り戻すために全く違う人物になりきり、それによって通常の生活に戻っていくという、子供のころからの仲直りの手段。

ちょまてよっ!!!

姉さん……!!

という妹が放つ2つの言葉による切り返しがこの作品最大の盛り上がりを見せる場面。「本当はお互い知っているのに知らないふりをしていた→もう知らないふりをする必要はない!」という反転が巻き起こすパワーに劇場全体がうなりをあげているようだった。笑いと感動がとめどなく押し寄せてくる場面。そうして私たちは知ることになる。ナカゴーという劇団が魅せるオーバーアクション予定調和劇=「ごっこ遊び」が、わたしたちの心を豊かにし、勇気を与えてくれていることを。バッドエンドは、まだ終わりじゃなくて。そこを乗り越える本当のわたしに、「まだ出会っていないだけ」。f:id:bsk00kw20-kohei:20180804200039j:image

映画『未来のミライ』はファンタジーではなく、単なるくんちゃんの妄想物語だ

f:id:bsk00kw20-kohei:20180722111619p:image(短文レビュー)

ああいう「おもしろい家」で暮らしてると、創造力というか、妄想が止まらないんだろうな。これはファンタジーというよりも、(単なる)「くんちゃん」の妄想物語なのではないか。


だから未来のミライちゃんが「いきなり」現れることに理由なんていらないし(というよりもまぁ、自分の思い通りにいかないことが起こると妄想の世界に逃げちゃう感じですかね)、大きな物語に展開していかないのも“等身大のお話”として受け取ることができる。


僕はこの映画を観て、幼稚園とか小学生くらいの自分を思い出してしまったのだ。一人遊びが大好きで、小さな家の中に大きな世界を創造(想像)してしまうあの無邪気さ。今はもう失われてしまった、その子供心をこの映画は思い出させてくれる。


都合が悪いと妄想の世界に逃げてしまうという点で、くんちゃんはダメな子かもしれない。でもこの映画は、現実に向き合うまでをしっかり描いている。(自転車に乗って人と向き合う。親に迷惑をかけないように青いズボンを履き続ける。ミライちゃんと笑い合う。など)


別に、現実に向き合う(要するに少し大人になる)ところも描く必要はないと僕は思うけど、そこは物語としての筋を通しているといえるだろうか。(一方で、ほとんど成長していないじゃないか! と批判する観客がいても、それはそれで子どもらしくていいと思う)


僕はこの映画、好きです。心が踊りました。

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